アンカラの敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:32 UTC 版)
「アンカラの戦い」も参照 1400年8月からティムールは西進してオスマンの領土に侵入、スィヴァスを陥落させ、スィヴァス攻略後に一度はマムルーク朝の支配するエジプトに軍を進めたためにティムールとの直接対決は回避される。ティムールはバヤズィトに帰順を求める書簡を送るが、彼は勧告を拒絶し、1402年にティムールは再びアナトリアに矛先を向ける。ティムールの要求は以下のようなものであった。 ジャライル朝のアフマド、カラ・ユースフの引き渡し ティムールの名を刻んだ貨幣の鋳造、宗主権の承認 王子の1人を人質として送る 他のベイリクの領地の返還 コンスタンティノープルではマヌエル2世の留守役を任されていたヨハネス7世がコンスタンティノープルを明け渡す交渉を始めていたが、ティムールのアナトリア侵入の報を受け取ったバヤズィトは包囲を解いてアナトリアに駆けつけた。しかし、準備は万端ではなく、長距離を行軍してきたティムールの軍に先制攻撃をかけず、好機を逃す。 ティムールはかつてオスマンに滅ぼされたベイリクの君主を戦闘に参加させることで他のベイリクからオスマンに仕官した騎士に揺さぶりをかけようとし、また常備軍であるイェニチェリも相次ぐ遠征で疲労が高まり、士気は低かった。1402年7月20日にアンカラ近郊のチュブックでティムールの軍と衝突するが(アンカラの戦い)、他のベイリク出身の騎士たちは旧主に寝返り、元々数でティムール軍を下回っていたオスマン軍はさらに劣勢となった。イェニチェリやラザレヴィチ率いるセルビア兵らヨーロッパ出身の兵士は奮戦するが、敗戦の色が濃くなると彼らは王朝を存続させるべく、王子と大宰相を守って戦場を脱出した。バヤズィトを守るイェニチェリのほとんどは倒れ、彼は妃のデスピナ、子のムーサーとともにティムールに捕らえられる。 伝承によれば捕虜にされたバヤズィトは金格子の藁小屋に閉じ込められて苦痛を与えられたと言われるが、実際には丁重に遇されたようである。しかし、バヤズィトが逃亡を図るに及んで厳重な監視が布かれ、夜間は足枷をはめられ、移動においては2頭の馬に曳かれた格子付の駕籠に乗せられた。8か月の捕虜生活の末にサマルカンド移送の途上、1403年3月8日(あるいは9日)にアクシュヒルで没、おりしもバヤズィトの釈放のために身代金の交渉がされていた時期であった。死因はアンカラの戦い以前より罹っていた痛風、あるいは指輪の宝石の下に潜ませていた毒薬を呑んで自害したとも言われる。 バヤズィトの滅ぼしたベイリクはティムールの手で再興され、帝国に残された領地にはバヤズィトの四子スレイマン、メフメト、イーサー、ムーサーが割拠し、彼らは帝位を巡って争った。
※この「アンカラの敗戦」の解説は、「バヤズィト1世」の解説の一部です。
「アンカラの敗戦」を含む「バヤズィト1世」の記事については、「バヤズィト1世」の概要を参照ください。
- アンカラの敗戦のページへのリンク