捕虜生活
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「エイドリアン・カートン・デ・ウィアート」の記事における「捕虜生活」の解説
カートンは高い地位の捕虜として扱われた。イタリア、スルモーナ地方ヴィラオルシーニで4ヶ月を過ごした後、ヴィンチリアータ(英語版)のカステッロ・ディ・ヴィンチリアータ特殊収容所へ高官として移送された。此処には多くの上級士官捕虜が収容されていた。なぜなら1941年初期の北アフリカ戦線でエルヴィン・ロンメルの作戦が成功し、多くの捕虜を得たためだった。彼はここで多くの友を得た。 とくに仲が良かったのは、リチャード・オコーナー、ダニエル・ノックス(英語版)、フィリップ・ニーム(英語版)だった。この4人とで脱走を約束し、7ヶ月でトンネルを作り5つの試みを行った。 その一つでカートンは農民を装い8日間、捜索の目を誤魔化した。(イタリア語もしゃべれない。多数の大怪我と眼帯を付けた61歳にしては凄いことである。)皮肉なことに、カートン脱出後に彼を無力化して本国送還する承認が到着していた。カートンがこれ以上この戦争に関わらないと約束したならば、送還するというものだった。 ランフリー女侯爵ハーマイオニーから、カートンの妻宛の手紙で、収監中のカートンの様子が説明されている。"...下品な言葉の世界記録を所持してるかもね。"と彼が言ってる"...面白い人ね"。"...延々と彼は面白い話をしていた。彼は本当にいい人だ- 。ほんとうに素直にそう思う"と書き綴っている。 そして、驚くべき展開が起きた、1943年8月にカートンは刑務所から連れ出され、ローマに移され、戦争を終了するため、英国へ交渉人と共に停戦条件締結のメッセージを運んで欲しいとイタリア政府に内密に頼まれた。カートンはイタリアの交渉人であるGiacomo Zanussi将軍と同行し、リスボンで連合国と交渉の渡りをつける事を望まれた。 しかし、カートンは(交渉人の)保護に、一般市民の服を必要とした。イタリアの仕立て屋に不思議がられながら、彼は適切な判断であると強調した。彼らが用意する "血塗られたジゴロスーツ"なんて着るつもりは無かった。自伝「ハッピーオデッセイ」の中で、最善の結果を出すために私の人生の中で一番のスーツが必要だったと説明している。 リスボンに到着後、カートンはイギリスとの連絡路を1943年8月28日までつくり解放された。
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捕虜生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:24 UTC 版)
5名の捕虜は翌1942年6月に捕虜として加わった飛行第64戦隊の清水武准尉とともにニューデリー・レッドフォートの英三軍尋問センター(所長:スチブンソン中佐)で取り調べを受け、同年秋、新設されたビーカーネール収容所(所長:ハッチンソン中佐)に入れられる。当初は家族的な雰囲気だったが、やがて44年の第2次アラカン作戦、フーコンの戦いやインパール作戦で収容者が激増すると付和雷同的な群集心理が働き、規律の乱れが起こったため、李が第1キャンプ長、清水が第2キャンプ長として自治体制を整えた。階級も出身も千差万別であるため統制は容易ではなかったが、1945年7月に収容所に来た水井一上等兵(歩兵第138連隊第3大隊本部附)によれば、なまりの多い言葉ながら軍人精神横溢で、統率力は抜群であったという。毎朝李が宮城遥拝を取り仕切り、「大和魂を忘れるな。生きて虜囚の恥をそそげ」と訓示するのが日課であった。 その反面、英軍には反抗的な態度を示している。中でも挙げられるのが大戦末期に起こった敬礼拒否事件である。ジュネーブ条約18条には捕虜の捕獲国将校に対する敬礼が義務付けられていたが、「敬礼の種類までは特定していない」として元軽爆パイロットで将校キャンプ先任者の飯島一良中尉(捕虜時は山田を名乗った)を中心とし軍隊式敬礼を拒否し脱帽ないしお辞儀を行っていた。しかし、飯島が視察に来たルイス・マウントバッテンの目の前で刺し違えんとの意思を示したため、面目を潰されたハッチンソン所長はいよいよ収容所全体に人員点呼と軍隊式敬礼の徹底に乗り出す。李ら第1キャンプは徹底拒否を貫き、収容所側も1週間以内に回答がない場合攻撃するとの通達を行った。李ら第1キャンプはハンストで抵抗し、武器を作り一週間後に塀を乗り越え突撃しようと申し合わせた。途中食料をもらった1名が吊るし上げられ自決させられる悲劇があったが、1週間後、ついにハッチンソンは要求を呑む。しかしそれは英軍の罠で、祝杯を行った捕虜らが眠り込んでいる隙にバク・シン(bak singh)中佐率いる藩王国軍衛兵隊が棍棒で襲撃した。武器で応戦しようとするが、李は衛兵に両腕を抑えられながら「待て。短気を出すな。山田中尉の命令だ」とキャンプの各班を回って制した。そうして静まった捕虜らは運動場へ引きずり出され、敬礼をするか否かの尋問が一人一人なされた。李は外村曹長、浜曹長、川勝長之助一等兵らと拒否組に回って棍棒で殴られ、炎天下に三時間余り立たされたのち、将校キャンプで1週間隔離された、一方、敬礼組でも同日に3名が焼身自殺を行った。 1945年8月の終戦後も捕虜は急増したため、李は他の強硬派組500名とともに新設のクェッタ収容所(所長:F・C・バーデンス中佐)に送られ、第2ウィング長となる。クェッタ収容所の警備は厳重であったが、収容者らはわざと板を落として割ったり、警備のインド兵に暴行するなどの反抗を続けた。 翌年、復員が決まりクェッタの捕虜もカラチへ向かう復員船に載せられるが、マラッカ海峡に差し掛かるところで捕虜たちの間にシージャックの話が持ち上がる。デオリー収容所から同乗していた民間人を巻き添えにしかねない事から、決起派と慎重派で一時騒然となったが、李は仲裁に入り民間人の意見を聞くよう提案する。同日夜、李が直接交渉に出向いた結果、民間人の反対があったため決起は流れたが、強硬派一名が悲憤のあまり自殺した。 5月中旬ごろにレンパン島に上陸したときも李は毎朝の宮城遥拝を続けていたが、数日後にそれが英軍の女性将校に発見されて騒ぎとなり、他の捕虜から引き離される。
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捕虜生活
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捕虜となった村上ら約1,800名はシベリア鉄道経由で、当時のロシア首都・サンクトペテルブルクから南に180キロにあるメドヴェージ(Медведь)村に移送され、ロシア第199連隊本部構内に収容された。収容所では村上が監督役、東郷辰二郎少佐が大隊長、横田中尉が中隊長となり、所内を統率した。 明治38年(1905年)9月、ポーツマス条約が締結され、同年12月15日、村上ら日本人捕虜は露独国境の駅ウェルバーレン(ヴィルバリス、のちのキーバルタイ)で日本側に引き渡された。12月20日、村上はヴァンクーヴァー号に乗組みハンブルク港を出港。翌年2月8日、神戸港に到着した。
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捕虜生活
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「フェルナン・ブローデル」の記事における「捕虜生活」の解説
1939年、リュシアン・フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(日本語題『地中海』)として結実することとなる博士論文を書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦が勃発し、ブローデルは砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。1940年6月29日にはドイツ軍の捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなった。その間、書き続けられた学習用ノートはフェーヴルのもとへ送られている。 1940年6月から1942年春まではマインツの将校捕虜収容所に収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文の執筆を継続した。1941年に初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている。 ブローデルは、1941年から収容所内の同輩に対し定期的に講義をおこない、研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなった。マインツ大学図書館の古文書館から文献資料を自由に借りることができたため、多くのドイツ語史料を渉猟することができたのである。ブローデルは初稿を完成させるとすぐに第二草稿に取りかかった。ブローデルの書き直し方は、一部を手直しするというのではなく、章の最初からまるごと書き直すというものであった。ブローデルはこののち1942年に、リューベックの収容所に移されるが、ここは懲罰目的の収容所であったため、マインツでのような自由や特権はなかった。しかし、手元に資料がない状態でも、自他ともに認める「象の記憶力」によって原稿を書き進めることができた。ブローデルは、捕虜としてすごした間、戦争そのもの、あるいは外交や政治の動向は、歴史を考える際、むしろそれほど重要ではないという認識をいだいたものと考えられる。
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