捕虜生活とは? わかりやすく解説

捕虜生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 08:45 UTC 版)

エイドリアン・カートン・デ・ウィアート」の記事における「捕虜生活」の解説

カートンは高い地位捕虜として扱われた。イタリアスルモーナ地方ヴィラオルシーニで4ヶ月過ごした後、ヴィンチリアータ(英語版)のカステッロ・ディ・ヴィンチリアータ特殊収容所高官として移送された。此処に多くの上士官捕虜収容されていた。なぜなら1941年初期北アフリカ戦線エルヴィン・ロンメル作戦成功し多く捕虜得ためだった。彼はここで多くの友を得た。 とくに仲が良かったのは、リチャード・オコーナー、ダニエル・ノックス(英語版)、フィリップ・ニーム(英語版)だった。この4人とで脱走約束し、7ヶ月トンネル作り5つ試み行った。 その一つカートン農民装い8日間、捜索の目を誤魔化した。(イタリア語しゃべれない。多数大怪我眼帯付けた61歳にしては凄いことである。)皮肉なことにカートン脱出後に彼を無力化して本国送還する承認到着していた。カートンこれ以上この戦争に関わらない約束したならば、送還するというものだった。 ランフリー女侯爵ハーマイオニーから、カートンの妻宛の手紙で、収監中のカートン様子説明されている。"...下品な言葉世界記録所持してるかもね。"と彼が言ってる"...面白い人ね"。"...延々と彼は面白い話をしていた。彼は本当にいい人だ- 。ほんとうに素直にそう思う"と書き綴っている。 そして、驚くべき展開が起きた1943年8月カートン刑務所から連れ出されローマ移され戦争終了するため、英国交渉人と共に停戦条件締結メッセージ運んで欲しいとイタリア政府内密に頼まれた。カートンイタリア交渉人であるGiacomo Zanussi将軍同行しリスボン連合国交渉渡りをつける事を望まれた。 しかし、カートンは(交渉人の)保護に、一般市民の服を必要とした。イタリア仕立て屋に不思議がられながら、彼は適切な判断であると強調した。彼らが用意する "血塗られたジゴロスーツ"なんて着るつもりは無かった自伝「ハッピーオデッセイ」の中で、最善結果を出すために私の人生の中で一番のスーツ必要だった説明している。 リスボン到着後、カートンイギリスとの連絡路1943年8月28日までつくり解放された。

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捕虜生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:24 UTC 版)

李根晳」の記事における「捕虜生活」の解説

5名の捕虜は翌1942年6月捕虜として加わった飛行第64戦隊清水准尉とともにニューデリー・レッドフォートの英三軍尋問センター所長:スチブンソン中佐)で取り調べを受け、同年秋、新設されビーカーネール収容所所長ハッチンソン中佐)に入れられる当初家族的雰囲気だったが、やがて44年第2次アラカン作戦、フーコンの戦いインパール作戦収容者激増する付和雷同的群集心理働き規律乱れ起こったため、が第1キャンプ長、清水が第2キャンプ長として自治体制を整えた階級出身千差万別であるため統制は容易ではなかったが、1945年7月収容所に来た一上等兵歩兵138連隊第3大隊本部附)によれば、なまりの多い言葉ながら軍人精神横溢で、統率力抜群であったという。毎朝宮城遥拝取り仕切り、「大和魂忘れるな。生きて虜囚の恥をそそげ」と訓示するのが日課であった。 その反面英軍には反抗的な態度示している。中でも挙げられるのが大戦末期起こった敬礼拒否事件である。ジュネーブ条約18条には捕虜捕獲将校対す敬礼義務付けられていたが、「敬礼種類までは特定していない」として元軽爆パイロット将校キャンプ先任者の飯島一良中尉捕虜時は山田名乗った)を中心とし軍隊敬礼拒否し脱帽ないしお辞儀行っていた。しかし、飯島視察に来たルイス・マウントバッテン目の前で刺し違えんとの意思示したため、面目潰されハッチンソン所長はいよいよ収容所全体人員点呼軍隊敬礼徹底乗り出すら第1キャンプ徹底拒否貫き収容所側も1週間以内回答ない場合攻撃するとの通達行ったら第1キャンプハンスト抵抗し武器作り一週間後に塀を乗り越え突撃しようと申し合わせた途中食料もらった1名が吊るし上げられ自決させられる悲劇があったが、1週間後、ついにハッチンソン要求呑む。しかしそれは英軍の罠で、祝杯行った捕虜らが眠り込んでいる隙にバク・シンbak singh)中佐率い藩王国衛兵隊が棍棒襲撃した武器応戦しようとするが、衛兵両腕抑えられながら「待て短気を出すな。山田中尉の命令だ」とキャンプの各班を回って制した。そうして静まった捕虜らは運動場引きずり出され敬礼をするか否か尋問一人一人なされた外村曹長、浜曹長、川勝長之助一等兵らと拒否組に回って棍棒殴られ炎天下三時余り立たされたのち、将校キャンプ1週間隔離された、一方敬礼組でも同日に3名が焼身自殺行った1945年8月終戦後捕虜急増したため、は他の強硬派500とともに新設のクェッタ収容所所長F・C・バーデンス中佐)に送られ、第2ウィング長となる。クェッタ収容所警備は厳重であったが、収容者らはわざと板を落として割ったり、警備インド兵に暴行するなどの反抗続けた翌年復員決まりクェッタの捕虜カラチへ向かう復員船載せられるが、マラッカ海峡差し掛かるところで捕虜たちの間にシージャックの話が持ち上がる。デオリー収容所から同乗していた民間人巻き添えしかねない事から、決起派と慎重派一時騒然となったが、仲裁入り民間人意見を聞くよう提案する同日夜、直接交渉出向いた結果民間人反対があったため決起流れたが、強硬派一名悲憤のあまり自殺した5月中旬ごろにレンパン島上陸したときも毎朝宮城遥拝続けていたが、数日後にそれが英軍女性将校発見され騒ぎとなり、他の捕虜から引き離される。

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捕虜生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 17:49 UTC 版)

村上正路」の記事における「捕虜生活」の解説

捕虜となった村上ら約1,800名はシベリア鉄道経由で、当時ロシア首都サンクトペテルブルクから南に180キロにあるメドヴェージ(Медведь)移送されロシア199連隊本部構内収容された。収容所では村上監督役、東郷辰二郎少佐大隊長横田中尉中隊長となり、所内統率した。 明治38年1905年9月ポーツマス条約締結され同年12月15日村上日本人捕虜は露独国境の駅ウェルバーレン(ヴィルバリス、のちのキーバルタイ)で日本側に引き渡された。12月20日村上ヴァンクーヴァー号に乗組みハンブルク港出港翌年2月8日神戸港到着した

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捕虜生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 08:36 UTC 版)

フェルナン・ブローデル」の記事における「捕虜生活」の解説

1939年リュシアン・フェーヴル別荘で、のちに『フェリペ2世時代地中海地中海時代』(日本語題地中海』)として結実することとなる博士論文書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦勃発しブローデル砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。1940年6月29日にはドイツ軍捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなったその間書き続けられ学習ノートはフェーヴルのもとへ送られている。 1940年6月から1942年春まではマインツ将校捕虜収容所収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文執筆継続した1941年初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く生き生きとしている」「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている。 ブローデルは、1941年から収容所内の同輩対し定期的に講義おこない研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなったマインツ大学図書館古文書館から文献資料自由に借りることができたため、多くドイツ語史料渉猟することができたのであるブローデル初稿完成させるとすぐに第二草稿取りかかったブローデル書き直し方は、一部手直しするというのではなく、章の最初からまると書き直すというものであったブローデルこののち1942年に、リューベック収容所移されるが、ここは懲罰目的収容所であったため、マインツのような自由や特権はなかった。しかし、手元資料がない状態でも、自他ともに認める「象の記憶力」によって原稿書き進めることができた。ブローデルは、捕虜としてすごした間、戦争そのもの、あるいは外交政治の動向は、歴史考える際、むしろそれほど重要ではないという認識いだいたものと考えられる

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