捕虜殺害との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:14 UTC 版)
岡田は太平洋戦争中、軍令部員として視察に訪れたクェゼリン環礁で第六根拠地隊司令官・阿部孝壮に捕虜殺害を示唆したとされる。この捕虜は米兵9名で、阿部は近く戦場になった場合の対処に苦慮し、上層部に指示を願っていた。しかし、直属の第四艦隊や軍令部からの指示はなかった。意見を求められた岡田は次のように回答したという。 捕虜の拘束場所として安全な所は第四艦隊の管轄下の島々にはないし、日本本土までは移送に安全を期すことができない。現地で処理する以外に方法がないのではないか — 『井上成美』から引用 結局、捕虜は処刑され、戦後、阿部は戦犯として刑死した。第四艦隊の長官であった井上成美は責任を問われなかったが、戦後、阿部の息子(海兵74期)の同期生に対し自分の責任を認め、「本当に申し訳ないことをしました」と伝言を依頼している。 なお、上記の岡田発言は第六根拠地隊先任参謀の証言である。戦犯裁判では生存者を救うため戦死者に責任を負わせる傾向があったことは事実で、岡田は戦死しているため、岡田側の証言はない。
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