捕虜通訳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 05:04 UTC 版)
ファイル:Mount Oe Nickel Mine.JPG 大江山鉱山跡に残る煙突。鉱山から加悦鉄道で約10km離れた阿蘇海の近くに捕虜収容所があった。 川北は1939年、アメリカ合衆国のパスポートで日本に渡航し、父の知人で、後に内閣総理大臣になる三木武夫の家に身を寄せ、アメリカ合衆国民として明治大学に入学した。ところが、在学中、太平洋戦争が勃発し、川北は帰国することができなくなった。川北は敵性外国人として特別高等警察の監視対象となった。 大学を卒業した川北は、三木の薦めで三木の義父森矗昶が創設した森コンツェルンの構成企業である日本冶金工業に入社した。入社には日本国籍を証明する必要があったので、川北は1943年、伯父の養子となり戸籍に名前を載せ外国人登録を取り消した。これにより川北は特高警察の監視対象から外れた。 日本冶金工業は京都府の大江山にニッケル鉱山を所有していた。ニッケルは兵器の製造に欠かせない鉱物であるが、日本はそのほとんどを輸入に頼っていた。そのため輸入が途絶えた戦中、日本政府は数少ない国内鉱山である大江山鉱山の採掘と精製を重要視し、さらなる開発促進を図った。当初、鉱山の労働力は強制徴用された朝鮮半島出身者によって賄われたが、ニッケルの需要が高まり、労働力不足を補うために連合国軍の戦争捕虜が投入された。大阪俘虜収容所大江山分所が作られ、最初にカナダとイギリスの捕虜が送り込まれ、ニッケルの採掘と精製に当たった。1944年アメリカ兵が捕虜収容所に入所し、オランダ、ノルウェー、オーストラリアの捕虜も加わり、鉱山労働に従事させられた。ここに収容されたアメリカ兵捕虜約400人はすべてバターン死の行進の生き残りであった。 物資や食糧が不足した劣悪で不衛生な環境の中で、大江山の作業場と捕虜収容所では生産向上のために、衰弱した捕虜を木刀で殴ったり汚水槽に投げ込んだりする虐待行為が日常的に見られた。捕虜の間に階級が生じ、権力を持った捕虜が捕虜を虐待することもあった。戦後解放されるまでに、収容された全捕虜の約1割が命を落とした。 川北は1944年から終戦まで、大阪俘虜収容所大江山分所と大江山ニッケル鉱山において連合国軍戦争捕虜の通訳として働いた。アメリカ軍兵士が入所することを知った時、川北は森清に仕事をやめさせてほしいと頼んだが聞き入れられなかった。 起訴状によると、川北は赤十字救援物資を盗んだ戦争捕虜を気絶するまで殴るなど数々の虐待に参加し、アメリカ合衆国とその戦争捕虜を侮辱する発言を繰り返したとされる。その他起訴状には、あるアメリカ人捕虜が日本兵によって汚水槽に突き落とされ這い上がろうとしたところ、川北に再び突き落とされたことがあったとも記されている。また、「捕虜を虐待するため川北は木刀を携帯していた」と後に元戦争捕虜が証言している。これについて、川北は木刀ではなくステッキだと裁判で反論したが、認められなかった。 捕虜たちは川北を嫌い、川北を「ミートボール」と呼んでいたという。「ミートボール」は当時「間抜け」を意味するスラングとして使われ、また日章旗の蔑称でもあった。 日本敗北の色が濃くなった1945年3月、川北は、自分はアメリカ人なのだから終戦後帰国するつもりだと話していた。実際に戦後、川北は横浜のアメリカ合衆国領事館で、戦時中アメリカ合衆国の市民権喪失の原因となる行為をしていないと宣誓し、アメリカ合衆国のパスポートの更新に成功した。川北は宣誓書の中で、1939年からの日本居住を一時居住とし、自分は出生時から二重国籍だったが警察と伯父から圧力をかけられるまで戸籍に名前を載せていなかったと述べ、日本への帰化、忠誠宣誓、選挙権の行使をしたことがないと誓った。川北は日本国籍を離脱した。
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