ウォシタ川でのシャイアン族インディアンの被害者
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「ウォシタ川の戦い」の記事における「ウォシタ川でのシャイアン族インディアンの被害者」の解説
カスターが報告したウォシタ川でのインディアンの被害者数は長く続く議論の対象となっている。11月28日にシェリダン将軍に報告した最初の戦闘記録では「戦闘後の実際の注意深い精査により」、戦士103名の死体が見つかったとしていた。「支給基地」にいたシェリダンはこの数字をオウム返しに、翌日W・A・ニコルズ名誉少将のもとに伝えた。実際の戦場で死体を数えることは行われなかった。エドワード・S・ゴッドフリー中尉に拠れば、戦死したインディアン戦士の数の推計は戦闘の翌日夜になってやっと行われており、兵士達が「支給基地」に戻る行軍中に野営地を造った後のことだった。「(戦闘後)2日目の夜」とゴッドフリーはインタビュアーのウォルター・M・キャンプに1917年に告げて、「カスターは士官達に野営の中で死んでいるのを見たインディアンについて尋問し、これらの報告から戦死したインディアンに関する公式報告が作られた。戦場で死んだインディアンは部隊兵によって数えられておらず、説明されているように後で推測された。」と言った。1928年に初めて出版された証言ではゴッドフリーが、「その夜の夕食後、士官達が集められ、それぞれが敵戦士の損失、場所などについて尋ねられた。重複を避けるために労力が使われた。総計は103名であるということになった。」と述べた。フレデリック・ベンティーン大尉は、W・L・ホロウェイの『平原での自然生活とインディアン戦争の恐怖』でのこの死者数のとりまとめに対する注釈で、「カスターは士官達を集めて、それぞれがどのくらいの数のインディアンの死体を見たか尋ねた。続いてそれぞれが見た数が加算された。『彼等は皆同じインディアンの死体を見ていた』」と述べた。 第7騎兵隊に付いていた混血の斥候であるジョン・ポイザルとジャック・フィッツパトリックは、シャイアン族捕虜と共にドッジ砦に到着したときにJ・S・モリソンとは異なるインディアンの被害者数を報告した。モリソンは12月14日にインディアン代理人エドワード・ワインクープ大佐に宛てた手紙で、「ジョン・スミス、ジョン・ポイゼル(ポイザル)およびジャック・フィッツパトリックが今日到着した。ジョン・スミスはウォシタの戦闘に居なかったが、ジョン・ポイゼルおよびジャックは居た。彼等は全て一致して戦闘の公式記録は過大に評価していると言っている。男は20名以上殺されていない。残り、約40人は女だ。」と書いた。シャイアン族捕虜自身が「支給基地」でシェリダン将軍に尋問され、シャイアン族13名、スー族2名およびアラパホー族1名がウォシタ川で殺されたと報告した。この数字をシェリダンがニコルズ名誉少将に報告した。ジャーナリストのデイブ・ランドルフ・カイムも通訳のリチャード・カーティスを介して女捕虜を尋問し、戦死した者の実名まで把握し、シャイアン族13名、スー族2名およびアラパホー族1名という同じ結果になった。後にシャイアン族の様々な情報源があり、その大半は互いに独立したものだったが、この女性捕虜が出した数字を確認することになった。軍隊の報告書はほとんど女性と子供の被害を検討していない。しかし、カスターはのちに、その報告書で「戦闘が最高潮になったとき、自軍の防衛のために、何人かの女性と幾人かの子供が殺され負傷したということがあった」と認めた。 カスターとシェリダンが12月に戦場を再訪した後、カスターは当初の103名の戦士の戦死という推計を引き上げ、コブ砦から「インディアンはかなりの負傷者以外に140名が戦死したことを認めた。我々が確保している捕虜達を含め、インディアンの損失全体は戦死、負傷および不明合わせて300名に近い。」と書き送った。歴史家のホイグはもしこれが真実ならば、野営にいた全員が事実上殺されたか捕まえられたことを意味すると指摘している。同じく歴史家のグリーンは「カスターの数字は誇張されており、その具体的情報源は不明のままである。」と述べている。ハードーフはカスターが修正した総計を疑った。「この新しい数字はコブ砦に囚われ絞首刑での死に直面している2人のカイオワ族酋長から得た情報に基づいている。」とハードーフは言い、「彼等が窮地にあることを考えると、絞首台を避けられるなら何でも言った可能性があることを示唆している。しかしこのような疑いはウォシタ川の捕虜の場合には肯われない。シャイアン族の女は自由に士官達と交わることが認められており、その多くを親密に知っていた。彼女たちは好い待遇を保証されており、死んだ同族についてその証言を曲げたという明白な理由は無い。」と言った。 グリーンはインディアンによる推計が最も信頼できるとし、「よく言われるように、最も信頼できる推計は犠牲者側から出てくるに違いない」と言ったが、「それでも一致はしない」とも言った。しかしアトリーは「インディアンの勘定である12人の戦士とその倍の女が殺されたというのは、カスターの数字が大き過ぎるのと同じくらい低過ぎると書いている。ホイグは「103名という数字が正確な戦場での勘定によっていないとしても、既に戦場跡の歴史標識に書かれている決定的な数字である。絶対的に正確な数字と分かる可能性が少ないのであれば、ウォシタ川でカスターが殺したインディアンの数として疑いなく認められたままになるだろう。歴史がそれを明らかにすべきだが、死者は会戦の場で戦い敗れた戦士全てでは絶対あり得ない」と書いている。 シャイアン族の証言の幾つかはウォシタ川で戦死した者の実名も入っていた。ジェローム・グリーンはウォシタ川に関する著作に「ウォシタ川で死んだ村人の記録」という付録を作成し、その中にこれら資料から名前を挙げた死者のリストがあって、男性40名、女性12名(そのうち11名は不詳)および子供6名(すべて不詳)が挙げられている。グリーンは、ある者は1つを超える名前を持っている可能性があり、重複してリスト化されている可能性を述べている。リチャード・G・ハードーフは同じ資料を使って「氏名の合成リスト」を作った。これは異なる資料における複数の名前(あるいは同じ名前の複数の訳)を一部調整しており、例えばインディア名ホワイトベアとトール・ホワイトマンをもつメキシコ人ピラン、あるいはバッドマンと呼ばれたビターマンまたはクランキーマンがいた。ハードーフは「死者の何人かはある資料では出生時の名前で、また有る資料ではあだ名で識別された。また、英語による個人の訳名が様々にあることが、これらの判別の混乱を増した」と書いている。 ウォシタ川の虐殺でのインディアン被害者推計値当時の史料による 史料推計日付男女子供合計第7騎兵隊G・A・カスター中佐 1868年11月28日 103名 いくらか 僅少 103名+α 女性捕虜、通訳のリチャード・カーティスと「ニューヨーク・ヘラルド」記者デブ・ランドルフ・クライムを介して 1868年12月1日 シャイアン族13名スー族2名アラパホー族1名 記録なし 記録なし 16名 ミズーリ方面軍指揮官フィリップ・シェリダン少将 1868年12月3日 シャイアン族13名スー族2名アラパホー族1名 記録なし 記録なし 16名 カイオワ族のブラック・イーグル、通訳フィリップ・マカスカーを介して 1868年12月3日 シャイアン族11名スー族3名 多く 多く 14名+α 第10騎兵隊ヘンリー・E・アルボード大尉 1868年12月12日1874年4月4日 シャイアン族80名スー族1名カイオワ族1名 記録なし 記録なし 81名[82名] 第7騎兵隊に付いていた混血の斥候であるジョン・ポイザルとジャック・フィッツパトリック、J・S・モリソン経由 1868年12月14日 20名 女性子供40名、 60名 第7騎兵隊G・A・カスター中佐 1868年12月22日 140名 いくらか 僅少 140名+α 特定できないシャイアン族、第10騎兵隊ベンジャミン・H・グリアソン経由 1869年4月6日 18名 記録なし 記録なし 18名 レッドムーン、ミニミック、グレイアイズ、リトルリーブ、特別インディアン・コミッショナービンセント・コリアー経由 1869年4月9日 13名 16名 9名 38名 第7騎兵隊に付けられた斥候隊長ベンジャミン・H・クラーク 1899年 75名 女性子供75名 150名 第7騎兵隊兵卒デニス・リンチ 1909年 106名 いくらか 記録なし 106名+α メド・エルク・パイプ、ジョージ・ベントとジョージ・ハイドを経由 1913年 11名 12名 6名 29名 クロウ・ネック、ジョージ・ベントとジョージ・バード・グリネルを経由 1914年 シャイアン族11名アラパホー族2名メキシコ人1名 シャイアン族10名スー族2名 5名 31名 パッカーとシーウルフ、ジョージ・ベント経由 1916年 シャイアン族10名アラパホー族2名メキシコ人1名 記録なし 記録なし 13名 マグピーとリトルビーバー、チャールズ・ブリル経由 1930年 15名 記録なし 記録なし 15名 Source: Appendix G table, "Aggregate Totals", Hardorff 2006, p. 403. 上の表は発生順に置き換えた。各推計に資料を挙げた。資料の種類は下記の色で分けた。 Key: 軍隊の推計 第7騎兵隊に付けられた文民斥候の推計 インディアンの推計
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