捕虜殺害の論争例:幕府山事件(山田支隊の捕虜処断)
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「南京事件論争」の記事における「捕虜殺害の論争例:幕府山事件(山田支隊の捕虜処断)」の解説
第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法かについて議論される。幕府山事件とも言われる。 自衛発砲説 自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐(当時)の地元新聞からの取材に対する回答や戦後に本人が纏めたと思われる手記に基づいた見解で、虐殺は少数で、戦時国際法上、合法と主張する。 両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。 軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。但し、これは責任者ともいうべき両角業作自身が戦後地元紙のインタビューに応じた時に初めて公に言い始め新聞に記載された弁明を元に、それを単純に本当のことを語っているとすることで成立する説である。また、それだけの捕虜を逃すための舟を確保した形跡がない等、下記の小野賢二説など否定説も強い。 小野賢二説 小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。 山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。 12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。 12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。 小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しない(戦時国際法上は違法)と断じた。 この小野説は、南京事件調査研究会などにおいて支持されている。ただし、小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない。
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