捕虜釈放と合意の無効
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「捕虜釈放と合意の無効」の解説
8月14日、モンカルムはルードゥーンとウェッブに書状をしたため、インディアンたちの行為を詫びたが、しかしこの件の正当化にも努めた。インディアンに捕えられ、モントリオールに送られた多くの捕虜は、やはり結局はヴォードルイユの交渉により、捕虜交換を通じて本国に送還された。9月27日、イギリスの小艦隊がケベックを出航した、艦隊には、仮釈放となった、あるいは交換された捕虜たちが乗っていた。ウィリアム・ヘンリー砦での戦いやオスウィーゴ砦の戦いで捕囚された兵たちだった。艦隊がハリファクスに着くと、ウィリアム・ヘンリー砦で捕虜となった300人が植民地に戻った。艦隊はその後ヨーロッパへと向かい、そこでもう少し多くの捕虜たちが釈放された。うち何名かは、やはり最終的には植民地に戻った。 この敗戦で、ウェッブは本国へ召喚された。ウィリアム・ジョンソンは、ウェッブは「私が知っている唯一の臆病なイギリス人」と書いている。総督のルードゥーンもやはり召喚された。しかしこの召喚が、ルイブールの遠征の失敗の主たる要因となる。モンロは1757年に死去した。死因は脳卒中といわれるが、歴史家の一部には、共に戦ったウェッブの失敗への怒りが、この病気を引き起こしたのではと考える者もいる。 総督のルードゥーンは、降伏条件としてのフランスの捕虜の解放が、遅れたことに気をもんだ。ルードゥーンを引き継いで、総指揮官となった ジェームズ・アバークロンビーは、第35歩兵部隊(英語版)の、仮釈放となった者から、この合意を無効にするように求められた。そうすれば、彼らは1758年には任務につけるからだった。アバークロンビーはこれに応じ、捕虜となったイギリス兵は、1758年のルイブールの戦いで、ジェフリー・アマーストのもとで任務に就くことができた。アマーストも、1760年には、フランスの降伏で捕虜の扱いの主導権を握ることになるが、この時はルイブールと、モントリオールで降伏した部隊への栄誉を拒否した。この戦いでの、フランスの捕虜への条件のこだわりが、その一因となっていた。
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