ルイブールの戦い
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ルイブールの戦い(ルイブールのたたかい)は、現カナダのルイブール要塞で生起した戦闘。
- 1 ルイブールの戦いとは
- 2 ルイブールの戦いの概要
ルイブールの戦い(1745年)
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「ジョン・ゴラム」の記事における「ルイブールの戦い(1745年)」の解説
1745年のルイブールの戦いで、ゴラムは父と共に戦った。父ジョン・ゴラム3世はこの時に戦死した。 ゴラムはノバスコシア防御の任務を受けた。1748年、彼は自分自身の猟兵部隊を指揮することになった。士官に多くのワンパノアグ族を抱えるこの部隊は、ノバスコシアに駐屯した 。1748年一杯は、ゴラムの部隊はアナポリスロイヤルにイギリス正規兵と駐屯していた。砦の外にゴラムの部隊用の兵舎があった。ゴラムは、アナポリスロイヤルに援軍を送るため、マサチューセッツからアンソンとウォーレンの2隻のスクーナー船を派遣していた。 この年の10月、英仏双方が所有権を主張していたセントジョン川流域の、フランス系入植者を降伏させるよう、マスカレンからの命令を受け、ゴラムはこの戦いで反撃を受けつつも、アベナキ族を包囲した。ゴラムはミナスでフランスの抵抗勢力を排除し、10月19日にセントジョン川を上り、アカディア人が自分たちの領土であると主張するこの土地で、ゴラムはフランスの勢力を駆逐した。この戦闘では、ゴラムはマサチューセッツからの支援を受けていた。
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ルイブールの戦い
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「ウィリアム・シャーリー」の記事における「ルイブールの戦い」の解説
詳細は「ルイブールの戦い (1745年)」を参照 ニューイングランドの4000人以上の部隊は4月30日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では5月11日)にケープ・ブレトン島に上陸し、砦の包囲戦を始めた。その間港はイギリス艦隊により封鎖された。ニューイングランド軍は戦闘で敗北を喫するようになり、一方で、アメリカの軍に低い評価を下していたイギリス海軍の士官たちは、ニューイングランドの苦戦にますます批判的になって行った。ウォーレンはニューイングランド軍を制御しようとしたが、ペッパーレルはこれに反抗した 。6月17日、ルイブールは陥落し、ニューイングランド軍の戦死者、病死した者、あるいは包囲中に海で死んだ者は180人だった。またイギリス海軍は一度も砦に向かって砲撃をせずに終わり、犠牲者も水兵が一人だけだった。ルイブールを占拠したのがニューイングランド軍であったため、アメリカとイギリスの摩擦が大きくなって行った。フランスの降伏条件は、持てるものを持って行っていいとの許可が下り、このためニューイングランド軍には何も戦利品がなかった。他方でイギリス海軍は何隻かのフランスの船を拿捕し、上陸許可を得たイギリスの水兵たちは、分配された戦利品で、懐が豊かであることをニューイングランド軍に自慢した。 ニューイングランド軍はルイブール攻略のための契約であり、兵士たちは、戦いが終わると帰国できるものと思っていた。イギリス本国の政府は、ニューイングランド軍が自力で攻略できるわけがないと信じていたため、砦の駐在部隊を送ることを考えていなかった。次の冬が終わるまで、交代のイギリス軍が来ないのが明らかになり、シャーリーはルイブールまで出かけて部隊を安心させた。彼の最初の演説はなんら功を奏せず、一部の部隊はほとんど暴動状態だった 。2度目の演説で、シャーリーは他の部隊もすぐに送ること、そして兵士の報酬を引き上げ、春まで駐屯する兵士たちに、今までよりもいい物資を送ると約束した。イギリス本国から与えられた栄誉はさほどのものではなかった。ペッパーレルは準男爵となり、またシャーリーと共にイギリス陸軍の大佐に就任して、連隊を指揮する権利を与えられた。そしてウォーレンは海軍少将に昇進した。
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