遠征隊の出発
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「ルイブールの戦い (1745年)」の記事における「遠征隊の出発」の解説
遠征の指揮官にはウィリアム・ペッパーレルが選ばれた。ペッパーレルはキタリーの商人で マサチューセッツ議会の議員でもあり、キタリーとメインの民兵隊の士官でもあった、植民地の海軍の指揮は大尉のエドワード・ティングにゆだねられた。マサチューセッツ、コネチカット、そしてメインの民兵から成る4000人ものニューイングランド軍は、13隻のアメリカの軍艦でルイブールを目指した。護衛艦隊はイギリスの艦隊で、指揮を執ったのはイギリス海軍士官のピーター・ウォーレンだった。 ペッパーレルは、カンゾに新しい拠点を作った。流氷がルイブール近辺のガバラス湾から消えるまで待つ間、ここで兵を鍛え、5月初めにイギリス海軍の艦隊と合流し、カンゾから旅立った。5月2日、この軍はポールトゥールーズを包囲し、同様にカンゾからルイブールの沿岸の集落を破壊した。ニューイングランド軍は5月11日、ルイブール南西沖8キロの地点に到達した。
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遠征隊の出発
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チャーチはウィリアム王戦争中にシグネクト奇襲を行っており、ダドリーは、この時の功績によりチャーチを大佐に任命して、カナダに連れて行かれたディアフィールドの捕虜との交換のために、アカディアから捕虜を連れて来るよう、特命を下した。この遠征はフランスへの懲らしめの意味もあった。「出来る限りの方法すべてを用いて町を焼き、敵の家や建物を壊し、穀物畑の堰堤を壊し、その他、彼らの生活を壊滅させること」 しかし、ダドリーは、チャーチにポートロワイヤルへの攻撃は許可しなかった。これについては、実行前に本国の許可が必要であることに言及した。 チャーチが編成した遠征隊は、マサチューセッツ湾岸地域の義勇兵500人に、インディアン兵が何人か混じっていた。5月15日(グレゴリオ暦では5月26日) にボストンを、14隻の輸送船と3隻の軍艦に分乗して出発した。軍艦はイングランド海軍のアドベンチャー(英語版)、42門艦のジャージー(英語版)、32門艦のゴスポート(英語版)で、シプリアン・サウザック率いるマサチューセッツの「プロビンス・ギャラリー」が同行していた。この時チャーチは、かつて捕虜だったマリシート族のジョン・ガイルズを通訳にしていた。 遠征隊はまず、ペノブスコット湾の入り口近くにあるマウントデザート島を目指し、パンタゴ(現メイン州セントキャスティン)に奇襲を仕掛けた。ここには、フランス人貴族ジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サン=キャスタン所有の、防御を巡らせた交易所が置かれていた。サン=キャスタンは不在だったが、娘とその子供たちが捕虜になった。チャーチはまた、新しいフランスの入植地が、パサマクォディ湾に作られていることを知り、遠征隊を次にそちらへと向けた。現在の、ニューブランズウィック州セントスティーヴン近くの海岸に送り込まれた小隊は、民家を壊し、近くで野営していたマリシート族を襲い、一人を殺した。次にチャーチは艦隊を2分して、フランスの補給船の拿捕目的でディグビー・ガットを封鎖させ、その一方で、遠征隊の大半をグランプレに向かわせた 。6月24日、軍艦の艦長たちは、ポートロワイヤルの駐屯隊に降伏を迫り、1,700人のニューイングランド兵と「野蛮人」に正面奇襲を掛けさせると脅かした。アカディア総督のジャック=フランソワ・ド・モンベトン・ド・ブルイヤンは、劣勢な状況下で、しかも150人の駐屯兵しかいないにも関わらず、このはったりを見抜き、拒否した。歴史家のジョージ・ロウリクは、ダドリーが、チャーチが関与しないところで、故意に脅かしつけるように要請したのだろうと推測している。
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