ジョージ・ニューネス卿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:35 UTC 版)
「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事における「ジョージ・ニューネス卿」の解説
ボルクグレヴィンクは出資者を探しているときに、イギリスの主導的雑誌出版者で映画のパイオニアであるジョージ・ニューネス卿と出逢った。ニューネスの出している雑誌には「ウェストミンスター・ガゼット」、「ティット・ビッツ」、「カントリー・ライフ」、「ストランド・マガジン」があった。出版者が探検を支援するのは異常なことではなかった。ニューネスの大きなライバルであるアルフレッド・ハームズワース(後のノースクリフ卿)がフレデリック・ジャクソンのフランツ・ヨーゼフ諸島(バレンツ海)遠征に金を出したばかりであり、国営南極探検にも財政的裏付けとなると約束していた。ニューネスはボルクグレヴィンクから十分な印象を受け取り、提案された遠征の総費用、約4万ポンド(2008年換算で少なくとも300万ポンド)を提供することになった。このニューネスの気前の良さがクレメンツ・マーカムと地理学の機関を激怒させ、一文無しのノルウェー人であるボルクグレヴィンクが、自分たちのために来るはずだったイギリスの金を取り上げたという見方をした。マーカムはボルクグレヴィンクに対して敵対心と侮蔑の態度を続け、ボルクグレヴィンク遠征隊の出発式に出席したミルを叱った。 ニューネスは遠征がイギリスの旗の下に出港することを主張し、「イギリス南極遠征」と名付けられることを求めた。実際には隊員29人のうち、イギリス人は2人だけであり、1人がオーストラリア人、残りがノルウェー人だった。それにも拘わらず、ボルクグレヴィンクは遠征のイギリス的性格を強調しようとして、ヨーク公の個人旗を掲揚し、ユニオンジャックを付けた竹500本を用意し、「イギリス帝国の測量と範囲を示す目標」とした。
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