ジョージ・デューイ
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ジョージ・デューイ George Dewey |
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生誕 | 1837年12月26日 バーモント州 モントピリア |
死没 | 1917年1月16日(79歳没) ワシントンD.C. |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1858 - 1917 |
最終階級 | ![]() |
戦闘 | 南北戦争 米西戦争 *マニラ湾海戦 |
ジョージ・デューイ (George Dewey, 1837年12月26日 - 1917年1月16日) は、アメリカ合衆国の海軍軍人。米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となり、アメリカ海軍史上でただ一人、海軍大元帥(海軍主席提督)の地位を与えられた。
経歴
バーモント州モントピリアに生まれ、ノーウィッチ大学を経て1858年に海軍兵学校を卒業。南北戦争に際してはデヴィッド・ファラガット少将の麾下で戦い、ルイジアナやミシシッピ川での戦闘に参加した。1865年には少佐に昇進。1867年からは海軍兵学校での職務につき、1871年には病院船サップリーの艦長となる。1872年、中佐となり、ボストン海軍工廠およびニューポート水雷基地勤務を経て、1875年からは海軍第2管区灯台監督官に就任した。1882年、スループ艦ジュニアタの艦長に任命され、ついで海軍省勤務等を経て、1884年には大佐に昇進。1889年からは海軍艤装局長を務め、1893年には再び灯台局配属となる。

1896年、准将に昇進し、1898年の米西戦争勃発にともないアジア方面戦隊司令官に就任。同年4月27日、中国を出航した旗艦オリンピア(USS Olympia, C-6)以下のアジア方面戦隊は、4月30日にマニラ湾に到着した。翌5月1日の朝、後に有名となる「きみの準備ができたら撃っていいぞ、グリッドレイ艦長」の言葉とともにスペイン太平洋艦隊に対する攻撃を開始。約6時間の戦闘で、味方の被害は負傷者9名のみという記録的な大勝利をあげた。この勝利により一躍英雄となったデューイは、1898年5月11日付で少将に昇進。その後もフィリピンでエミリオ・アギナルドらと協力しスペイン軍の掃討を指揮した。デューイ自身はこのときフィリピン人に接した印象から、フィリピン人による自治を主張していたといわれるが、マッキンリー大統領はこれを受け入れず、フィリピンはアメリカによって再び植民地化されることになる。
マニラ湾海戦の英雄として帰国したデューイは、1899年3月8日には海軍でただ一人の大将に昇進。1903年には、1899年3月2日に制定されていた海軍大元帥(海軍主席提督) (Admiral of the Navy) の地位が、この制定された日付に遡って与えられた。1898年には彼の功績を讃え、マニラ湾海戦参加者に贈られるデューイ・メダルが制定されている。帰国後のデューイには、彼を大統領候補に推す声も寄せられたが、デューイ自身はマッキンリーの再選を支持してこれを辞退している。1913年には自伝 (ISBN 0870210289) を出版し、1917年に没するまで軍務に留まった。
関連項目
デューイ提督の栄誉をたたえ、3隻の駆逐艦がその名を命名された。
- デューイ (駆逐艦) (USS Dewey, DD-349)
- デューイ (DDG-45) (USS Dewey, DDG-45)
- デューイ (DDG-105) (USS Dewey, DDG-105)
外部リンク
- Dewey biography on Spanish American War Centennial Website - includes links to some of Dewey's letters
- Dewey biographical information - ウェイバックマシン(2005年12月8日アーカイブ分) on Naval Historical Center website
ジョージ・デューイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 08:38 UTC 版)
「元帥 (アメリカ合衆国)」の記事における「ジョージ・デューイ」の解説
海軍にも陸軍大元帥に相当する階級が存在する。これは「Admiral of the Navy(海軍大元帥。海軍主席提督、海軍大提督とも訳される)」と呼ばれるもので、1899年3月2日に制定された。1903年3月24日、米西戦争の英雄であるジョージ・デューイ少将を海軍大元帥にすることが議決される。これは、1898年のマニラ湾海戦で大勝利をおさめた功績に報いるためのものだった。デューイは1899年3月8日に当時ただ一人の大将に昇進していたが、階級の制定された1899年3月2日に遡ってこの地位が与えられている。海軍元帥(当時)の地位を与えられたのは史上デューイただ一人であり、1917年のデューイの死去にともない、この階級も消滅した。当時、この階級は四つ星の大将よりも高位で、イギリス海軍の「Admiral of the Fleet(海軍元帥)」と同格とされていた。しかし1944年に五つ星の「Fleet Admiral(海軍元帥、直訳は「艦隊提督」)」が制定されるにおよんで、1899年制定の「Admiral of the Navy(海軍大元帥、直訳は「全海軍の提督」)はそれよりもさらに高位に位置付けられることになり、陸軍大元帥と同格の六つ星相当となった。 海軍大元帥(1899年制定、六つ星元帥)一覧氏名・任官時の階級任官年月日任官時の役職ジョージ・デューイ少将 1899年3月2日 アジア方面戦隊司令官
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