国営南極遠征
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「クレメンツ・マーカム」の記事における「国営南極遠征」の解説
詳細は「ディスカバリー遠征」を参照 マレーによる南極探検再開の呼びかけに対する反応はさらに2年間が掛かり、1895年8月に第6回国際地理学会議を王立地理学会が主催したときだった。この会議は次のような満場一致の決議を採択した。 南極地域の探検は、現在もまだ取り掛かるべき地理的探検の最大の部分である。そのような科学的探検から生じるあらゆる科学分野の知識が増すという見解で、この会議は世界中の科学界が、最も効果的と見なされる方法で、この世紀の終わり前にこの仕事を実行に移すべきと推薦する。 この決議に対するイギリスの反応を組織化する合同委員会には、見解の違いもあった。マレーと王立協会は、科学者が指揮し、要員となる大半が文民の遠征を主張し、一方マーカムと王立地理学会の大半は海軍の栄光を復活させる手段として国営南極遠征を考えており、その考えに沿って編成された遠征隊を望んだ。最終的にマーカムの執念が通り、1900年、当時HMSマジェスティックの魚雷大尉だったマーカムの被庇護者ロバート・スコットを遠征隊の全体指揮者として指名することになった。そうすることで大英博物館地質学者助手だったジョン・ウォルター・グレゴリーの手に指導権を置こうという試みを妨害できた。マーカムを批判する者の見解では、このことが科学的作業の海軍による冒険への服従になったとしていた。ただし、マーカムが書いた「指揮官に対する指示」には、地理と科学の作業に同程度の優先性を付与していた。「科学対冒険」の議論は、遠征隊の帰還後に、科学的成果の幾つかについてその正確さや専門性について批判があった時に再開された。 マーカムは遠征隊の資金を確保するときに別の問題に直面した。1898年、3年間の努力の後でも、必要とされる資金のうちの僅かしか確保できていなかった。一方で、イギリスとノルウェーの血を受けた探検家カルステン・ボルクグレヴィンクが、民間の南極探検のために4万ポンド(2008年換算で300万ポンド以上)を、出版者のジョージ・ニューネス卿から確保していた(サザンクロス遠征)。マーカムは激怒し、その資金は自分のプロジェクトから逃げて行ったものだと考え、ボルクグレヴィンクを「責任逃れで、嘘つきで、詐欺師だ」と非難した。スコットランドの探検家ウィリアム・スペアズ・ブルースがマーカムに手紙を書き、国営南極遠征への参加を求めてきたが、そのブルースに対しても同様に敵対的だった。ブルースは指名を確認する文書を受け取れず、スコットランドの貴族から資金提供を受けて、自身のスコットランド国営南極遠征を編成した。マーカムはブルースのことを「人の悪い競争相手」だと非難し、「自身の計画を遂行するために国営南極遠征を壊そう」としていると言った。スコットランドの遠征隊も期日通りに出港したが、マーカムはそれに対して許さないままであり、その影響力を使って、隊員たちが帰還してきたときに極地メダルを受け取れないようにした。 かなりの量の民間からの寄付と、政府の助成金によって国営南極遠征は進行できることになった。新しい船ディスカバリーが建造され、主に海軍の士官や水兵が隊員に指名され、科学者については後に「力量不足」と言われた。ディスカバリーは、国王エドワード7世による検査後、1901年8月5日に出港した。その検査にはマーカムが出席し、スコットと士官達を紹介した。ディスカバリー遠征は3年間以上にわたって探検を続け、その間にロス海の基地から南極大陸のこの部分の探検が行われ、科学的観測も進んだ。「タイムズ」によって「北にしろ南にしろ、極地に行われた冒険の中でも、最も成功した遠征の1つ」と報告されたが、当時の政府からはほとんど無視された。マーカムは、当初の計画には反して、南極における2回目のシーズンを民間の力に頼ったこと、さらに1904年には救援のための資金を獲得できなかったことで、公式の機関からは批判された。この救援資金は大蔵省に依存することになった。
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