国営化と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 05:07 UTC 版)
その後の渓堿鉄路の経営状況は良好であった。渓堿鉄路開業前後から起点のある本渓湖は満州でも有数の炭鉱と鉄鉱山を有する鉱業都市として急速な経済成長を遂げ、牛心台炭鉱も工業化の重要な一翼を担った。線名の由来である堿廠までの延伸計画は実現しなかったが、安定した運賃収入が確保できる路線となっていた。 そのような状況下、満州事変により満州を実効支配していた奉天軍閥が崩壊、1932年3月1日に満州国が樹立された。満州国政府は翌1933年2月9日に国内の日本系・旧奉天軍閥系の鉄道を接収し満州国有鉄道として経営を南満州鉄道に委託、3月1日には国鉄線を運営する「鉄路総局」と建設を行う「鉄路建設局」が設置され、1936年10月1日からは「鉄道総局」として一元化された。 鉄道総局は、鉄路総局・鉄路建設局時代から国土開発の目的もあり国鉄線の路線網の大幅な拡大を計画、満州国交通部より建設を委託される方式で各地で段階的に新線建設に着手、満州国内には鉄道整備が急速に行われることとなった。 その際、1937年に新線候補の一つとして計画されたのが渓堿鉄路の予定線と経路が重複する宮原-牛心台-田師付間の「渓堿線」であった。この沿線は牛心台炭鉱のみならず、終点の田師付附近に多くの鉱山が散在しており、満州国が策定した「満州国産業開発五箇年計画」の中で中華民国時代に「東辺道」と呼ばれたこの地域の産業開発において、この路線がその鉱産資源ゆえに重要視された。 こうして国鉄渓堿線が渓堿鉄路と重なる経路をもって敷設されることになったが、政府は渓堿鉄路を国鉄線として直接買収して改軌・延伸するのではなく、新たに新線を建設し、代わりに渓堿鉄路を補償の意味合いも兼ねて国営企業化する方法を採用した。 1937年8月31日、渓堿鉄路は国営企業化され、翌9月1日に経営が満鉄に委託された。鉄道総局は国鉄渓堿線の建設準備を進め、同年7月から宮原-牛心台-小市間、翌1938年3月には残りの小市-田師付間の工事に着手した。 そして1938年9月1日、国鉄渓堿線の宮原-牛心台間が営業を開始したのと同時に、渓堿鉄路は全線廃止となり、25年間の歴史に幕を下ろした。 なお国鉄渓堿線は1939年11月1日に全通、終戦後も中国国鉄に継承され「渓田線」として現在も営業中である。
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