帰還と受け入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:35 UTC 版)
「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事における「帰還と受け入れ」の解説
遠征隊がイングランドに戻った時の受け入れは冷ややかなものだった。大衆の関心はいずれにしても、翌年の出港に向けて準備が進む国営のディスカバリー遠征に集まっていた。それにはロバート・ファルコン・スコットが隊長に指名されたばかりだった。名前だけイギリスとされた冒険とは明らかに異なっていた。サザンクロス遠征が挙げた功績にも拘わらず、地理学の世界には不満が残っていた。特にクレメンツ・マーカム卿の周りでは、ボルクグレヴィンクがニューネスの資金を受けたことで、国営南極遠征に金が入らなかったという思いがあった。さらに、ブルースが自分の建てた計画をボルクグレヴィンクが奪ったので、計画を放棄させられたと苦情を言っていた。ボルクグレヴィンクに対する信頼は、ニューネスの雑誌に掲載された様々な記事で使われた自慢げな調子や、ボルクグレヴィンクが急遽執筆した遠征の記録『南極大陸における初物』のジャーナリズム的スタイルでも補われなかった。ボルクグレヴィンクの報告書の英語版は1901年に出版された。 ボルクグレヴィンクはその遠征を大きな成功だと公言し、「もう1つのクロンダイク」、豊富な魚、アザラシ、鳥、さらにはその中に金属が見られる結晶」について話した。その著作の中で、遠征の主な功績を列挙した。すなわち、ヴィクトリアランドで冬の間生活できる証拠、1年間の連続した磁気と気象の観測、南磁極のその時点で推計される位置、海岸線の地図化と新しい島の発見、ロス島への最初の上陸と、最終的にグレート・アイス・バリアの大きさ評価、「最南端」南緯78度50分への橇旅行だった。しかし、実際のところ、越冬の場所に選んだケープ・アデアは、その後の南極内陸の地理的探検では拠点として除外された。科学観測の結果は予想されたよりも少なかった。これはニコライ・ハンソンの自然史ノートの幾らかが失われたせいもあった。ボルクグレヴィンクはその喪失に責任があるかもしれない。後にハンソンの元雇用主であるロンドン自然史博物館と、失われたノートやハンソンが集めたサンプルについて論争になった。 ボルクグレヴィンクはイングランドに戻ってから数年間に、アメリカ地理学協会から表彰され、その母国スウェーデンのオスカル2世からはナイト・オブ・セントオラーフに叙された。1929年、ノルウェー議会がボルクグレヴィンクに3,000ノルウェー・クローネの年金を送ることを決めた。後にデンマークとオーストラリアからも同様な栄誉を受けたが、イングランドではその功績がほとんど無視されたままだった。ただし、ミルからは「パイオニア的業績の取り掛かり、後の遠征のために人員を訓練するのに有益」と評価された。歴史家のデイビッド・クレーンは、ボルクグレヴィンクがイギリス海軍の士官であったら、その遠征はイギリスでもっと真面目に捉えられたことだろう」と推量した。
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