きかん‐じぎょう〔キクワンジゲフ〕【帰還事業】
帰還事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 10:01 UTC 版)
戦争後、出身国外に送られていたロームシャの帰還事業は、降伏した日本軍ではなく連合国側と赤十字国際委員会に委ねられた。日本軍元参謀の宮元静雄は1946年5月にある帰還船をジャワで迎えた時のことについて、ロームシャらの帰還事業に自ら携われないことを残念に思い、かわりにオランダから借金をして作った「退職金」を渡したと記している。 終戦後ビルマ、マラヤ、シンガポール、タイ、ジャワ、スマトラ等に進駐したイギリス軍政部は1945年9月にロームシャを収容する事業を開始した。オランダは1945年11月、インドネシア人帰還事業のための機関NEBUDORI(「蘭領インドネシア人の帰還と文献局」)をシンガポールで設立した。収容のためのキャンプはオランダが各地で運営した。イギリスが物資を提供したが、ロームシャの多くは栄養状態が悪く既に赤痢やマラリアに感染していることも多く、医薬品は十分ではなかった。 インドネシアへの引き揚げは1946年から1947年にかけて44隻の船で行われ5万人以上が帰還した。このうちの多くはオランダ支配下に留まった。ただしインドネシア人引き揚げはオランダにとって捕虜の引き揚げよりも優先順位が低く、事実上の独立を遂げたインドネシア共和国(インドネシア独立戦争)と対立し労働力を必要としていたオランダ側がインドネシア共和国支配地域への引き渡しを拒んだと見受けられるケースもあった。タイに送られていたインドネシア人ロームシャの場合、タイ人女性と結婚し現地に留まった者もいた。帰国する機会を得られなかった者もいた。NEBUDORIは1947年に解散した。
※この「帰還事業」の解説は、「ロームシャ」の解説の一部です。
「帰還事業」を含む「ロームシャ」の記事については、「ロームシャ」の概要を参照ください。
「帰還事業」の例文・使い方・用例・文例
- 帰還事業のページへのリンク