遠征路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 22:56 UTC 版)
ブルゴーニュ公フィリップはジョン・オブ・ゴーントとルイ・ド・ヴァロワとともに独自に十字軍の率いる計画を立てたときに、三者みなが彼らを必要としているイングランドとの和平交渉を主張し撤退した。ひょっとしたら、その理由は、彼らのライバルが留まるときに、あえて王位のもとを離れるものはいなかったかもしれない。しかしブルゴーニュ公は、彼が24歳の長子のヌヴェール伯ジャンを名目上の指揮官とすることで、自身が資金を提供していた十字軍の支配を維持していた。ブルゴーニュ公は、35歳以下のウー伯フィリップ・ダルトワおよびブシコー元帥ジャン2世・ル・マングル(Jean II Le Meingre)と同様に、自分の息子も必要な経験がないことを認識していたため、戦士としても王国の政治家としても経験豊富なアンゲラン7世・ド・クシーを召喚し、十字軍の間、彼をヌヴェール伯ジャンの「主席顧問("chief counselor")」とした。 この曖昧な十字軍の指揮系統は、最後には決定的な問題を顕在化させた。このときヌヴェール伯ジャンには、十字軍に参加した他の有力フランス君主同様に長い「顧問("counselors")」の名簿を与えられ、彼らとともにヌヴェール伯ジャンは「いつが彼にとって良いかを」名簿で調べることができたが、指揮権の統合の概念はまだ中世ヨーロッパの戦士たちには理解されていなかった。十字軍の規律のルールは1396年3月28日の軍事評議会で定められたが、そこには、「騎士は攻撃を継続することで勇武を示すことが常に要求される」という「騎士道の規律」が明記されており、戦時には、伯とその従者は「前衛( avante garde)」を主張するという究極の条項「アイテム(Item)」が含まれていた。
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