ブラドックの遠征路
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「エドワード・ブラドック」の記事における「ブラドックの遠征路」の解説
1755年5月29日、メリーランドのカンバーランド砦を出発した遠征隊は兵站上の困難さに直面することになった。大部隊で移動することに伴う装備、食料、それに遠征の目的にとって最も大切な大砲を運びながら、深い森に覆われたアレゲーニー山脈やペンシルベニア西部の地を抜けて約110マイル (180 km)の行程を進まねばならなかった。ペンシルベニア植民地議会の代表的存在だったベンジャミン・フランクリンは、ブラドック遠征隊のために馬車や物資を購入する手助けをした。荷馬車の御者の中には、後にアメリカの歴史で伝説的人物となるダニエル・ブーンやダニエル・モーガンがいた。またイギリス軍の中には、アメリカ独立戦争で敵味方に分かれて戦うことになるトマス・ゲイジやチャールズ・リー、ホレイショ・ゲイツがいた。 遠征隊の歩みは鈍かった。ブラドック道路と呼ばれる道を作っていたこともあって、1日に2マイル (3.2 km)しか進まないこともあった。進度を速めるために、ブラドックは約1500名からなる「急行部隊」とトマス・ダンバー大佐に指揮を任せた輜重部隊に分けた。遠征隊は途上で、前年の夏にワシントンがフランス軍に敗北を喫したネセシティ砦の跡を通過した。行軍中にフランス軍やインディアンの小隊が現れることがあったが、小競り合いを交わした程度であった。 一方、デュケイン砦のフランス軍駐屯兵は正規兵とカナダの民兵を合わせても約250名に過ぎず、砦の外に同盟インディアン約640名が宿営していた。インディアンはフランスとの付き合いが長い様々な種族、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族から集まっていた。フランス軍の指揮官は、インディアンの斥候隊からイギリス軍が砦を囲むために行軍してきているとの情報を得、その砦がイギリス軍の大砲にあってはとても持ち堪えられないと考え、先手を取ることに決めた。それはモノンガヘラ川を渡るイギリス軍を待ち伏せて奇襲を掛けるというものであった。インディアンの戦士達はそのような大部隊のイギリス軍に攻撃を掛けることを初めは逡巡していたが、フランス軍の指揮官がインディアンの戦いの服を身にまとい、戦いの化粧をして、彼の指揮に従うようインディアン達を説得した。
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