ブラドックの遠征路とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ブラドックの遠征路の意味・解説 

ブラドックの遠征路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 09:54 UTC 版)

エドワード・ブラドック」の記事における「ブラドックの遠征路」の解説

1755年5月29日メリーランドカンバーランド砦を出発した遠征隊は兵站上の困難さ直面することになった大部隊で移動することに伴う装備食料、それに遠征目的にとって最も大切な大砲運びながら、深い森覆われアレゲーニー山脈ペンシルベニア西部の地を抜けて約110マイル (180 km)の行程を進まねばならなかった。ペンシルベニア植民地議会代表的存在だったベンジャミン・フランクリンは、ブラドック遠征隊のために馬車物資購入する手助けをした。荷馬車御者中には、後にアメリカの歴史伝説的人物となるダニエル・ブーンダニエル・モーガンがいた。またイギリス軍中にはアメリカ独立戦争敵味方分かれて戦うことになるトマス・ゲイジチャールズ・リーホレイショ・ゲイツがいた。 遠征隊の歩み鈍かった。ブラドック道路呼ばれる道を作っていたこともあって、1日に2マイル (3.2 km)しか進まないこともあった。進度速めるために、ブラドックは約1500からなる急行部隊」とトマス・ダンバー大佐指揮任せた輜重部隊分けた遠征隊は途上で、前年の夏にワシントンフランス軍敗北喫したネセシティ砦の跡を通過した行軍中にフランス軍インディアン小隊現れることがあったが、小競り合い交わした程度であった一方デュケイン砦フランス軍駐屯兵は正規兵とカナダ民兵合わせても約250名に過ぎず、砦の外に同盟インディアン640名が宿営していた。インディアンフランスとの付き合い長い様々な種族オタワ族オジブワ族ポタワトミ族から集まっていた。フランス軍指揮官は、インディアン斥候隊からイギリス軍が砦を囲むために行軍してきているとの情報を得、その砦がイギリス軍大砲にあってはとても持ち堪えられない考え先手を取ることに決めた。それはモノンガヘラ川を渡るイギリス軍待ち伏せて奇襲掛けるというものであったインディアン戦士達はそのような大部隊のイギリス軍攻撃掛けることを初め逡巡していたが、フランス軍指揮官インディアン戦いの服を身にまとい、戦い化粧をして、彼の指揮に従うようインディアン達を説得した

※この「ブラドックの遠征路」の解説は、「エドワード・ブラドック」の解説の一部です。
「ブラドックの遠征路」を含む「エドワード・ブラドック」の記事については、「エドワード・ブラドック」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブラドックの遠征路」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブラドックの遠征路」の関連用語

ブラドックの遠征路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブラドックの遠征路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエドワード・ブラドック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS