ネセシティ砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:22 UTC 版)
ジュモンヴィユから撤退した後、ワシントンはフランスの再度の攻撃を予測した。タナチャリゾンはデラウェア、ショウニーそしてセネカの諸族を説得して、グレイトメドウズでヴァージニア民兵隊に参加するつもりだった。インディアンたちは、150人のヴァージニア兵と共に砦を作り始め、6月3日に完成させた。この砦は、ワシントンによりネセシティ砦と名付けられた。弾薬と物資を入れた小さな兵舎を、円形の砦柵が取り囲んでおり、その砦柵は、樹皮と獣の皮で覆われた丸太を、一本々々垂直に立てたものだった。 6月9日までに、ヴァージニア連隊の残りの兵がグレイトメドウズに到着したが、大佐のフライは落馬して首の骨を折り、死亡していた。ワシントンは大佐の地位を引き継いだ。数日後、ジェームズ・マッケイ率いるイギリス正規兵100人が到着したが、イギリス軍はヴァージニア民兵と野営を張るのではなく、砦の外で自分たちだけで野営した。
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