その後の英仏抗争
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「ネセシティ砦の戦い」の記事における「その後の英仏抗争」の解説
詳細は「七年戦争」を参照 この年の8月に2つの戦闘の知らせがイギリスに伝わり、トマス・ペラム=ホールズ政権は、数か月の交渉の後、翌年に、フランス追放のための軍を派遣することを決定した。少将エドワード・ブラドックがその軍を率いた。ブラドックの遠征は惨事に終わり、1758年までフランスはデュケーヌ砦を支配下に置いたが、最終的にはジョン・フォーブスに、この砦を攻略された。 ブラドックが北アメリカに向けて出発するその前に、イギリス軍の計画がフランスにかなり漏れており、フランス国王ルイ15世は、敵軍よりも大きな部隊をヌーベルフランスに派遣していた。フランス軍は、モノンガヘラの戦いには間に合わなかったものの、その後の何年かに渡るフランスの対イギリス勝利に貢献した。イギリスは第二次攻撃として、提督のエドワード・ボスカーウェンに、1755年6月8日の海戦でフランス艦アルシドを攻撃させ、アルシドと他の2艦を拿捕した。この艦隊には、フランス兵の多くが乗艦していた。1756年春に、英仏両国の宣戦布告が行われ、七年戦争が正式に開幕し、以来、陸海共に北アメリカでの軍事行動は激しさを増した。
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