その後の英仏両国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:40 UTC 版)
「セントジョンズの包囲戦」の記事における「その後の英仏両国」の解説
ジョン・ムーディは1705年の終わりにイングランドへ戻り、コールドストリームガーズの中尉に昇格した 。しかしながら、レイサムとの反目はその後も続き、自らが指揮する砦の建築で、レイサムを不正行為で告発し、レイサムはこれがもとでこの仕事から退げられた。 同じ1705年、スーベルカスはフランス人入植地の拡大を続けた。フランス人集落は戦争にも関わらず隆盛を極めていた。これにより、スーベルカスはサンルイ勲章を受け、アカディア総督となった。またポートロワイヤルの防御にも責任者として赴き、1707年の戦いではイギリス軍をかわすのに成功したが、1710年の戦いではイギリス軍に屈した。 プラセンティアでは、スーベルカスの代理として、フィリップ・パストゥール・ド・コステベユが、包囲戦後の捕虜の交換の仕事を務め、1709年の1月にセントジョンズの攻略を成功させていた。1713年のユトレヒト条約の後、フランスはイギリスにニューファンドランドを割譲し、フランス系カナダ人住民は、コステベルの監視の下、ルイブールへと移った。しかし、ニューファンドランド北部の「フランス海岸」では、フランスが漁業権を握った。 ウィリアム砦の場所は、現在はカナダ国定史跡となり、サウスキャッスルがあった場所は、やはり国定史跡のシグナルヒルとなっている。
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