その後の能代市とは? わかりやすく解説

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その後の能代市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 23:14 UTC 版)

能代大火」の記事における「その後の能代市」の解説

二度大火によって能代市街並み生まれ変わった一方で大火代償として市の財政危機的状況となった第二次大火のあった昭和30年度は、昭和の大合併により近隣の山本郡檜山町鶴形村浅内村常盤村合併した年でもあるが、これら旧町村から引き継いだ赤字が2,300万円あった上に大火被害重なったために、同年単年度収支歳入3億4,800万円に対して歳出4億3,800万円と、差し引き8,900万円財政赤字となった第二次大火からの復興並行して、市では財政立て直し迫られることとなった第二次大火から1ヶ月半ほど後の1956年5月4日市長豊沢臨時議会招集し地方財政再建促進特別措置法適用を諮った。同法適用団体とされる地方自治大きな制約を受ける一方で大火からの復興政府からの援助を必要とした能代市では、「財政再建への誠意がない団体」とみなされ不利な立場となることは避けねばならず、苦渋提案であった議会では当然激しく反発したが、自主再建方途もないことから同意せざるを得ず、市ではただちに自治庁長官再建計画申請して11月には承認されることとなった11ヶ年亘る再建計画期間は当時「北の能代、南の小松島と言われたほどのワーストクラスであり、昭和30年代全期通じて市では赤字解消努めることとなった一方二度大火時期によって苦境にあった市民勇気けたもの体操選手小野喬鍋谷己の活躍挙げられる2人1952年ヘルシンキオリンピック出場小野跳馬競技銅メダル獲得した小野は続く3大会メルボルンローマ東京にも出場しメルボルン大会鉄棒競技では日本人最初金メダリストとなるなど、その後日本体操界の第一人者となった通算でのオリンピック獲得メダル数個人10(金3、銀3、4)、団体3(金2、銀1)、合計13に及び、金メダル5は2016年平成28年時点近代オリンピック個人40位の記録となっている。彼らの活躍は「体操王国能代」の名を全国轟かせ小野2017年平成29年)に野呂田芳成加藤廣志山田久志とともに能代市市民栄誉賞第一受賞者となったまた、この大火からの復興行事として始まったものに、能代の花火がある。二度大火によって沈滞しがちであった市民気分一新するために、能代商工会議所にて、当時東北木材社長であった能登斌治の提案によって企画されたもので、1958年昭和33年)に「全国花火競技大会」と銘打って第1回大会開催された。この開催にあたっては、全国花火競技大会開催していた先進地の大曲市現在の大仙市)に学ぶため、同地花火師佐藤一郎富樫善弥と、日本煙火協会専務松尾義雄の指導仰いでいる。この花火大会は1979年昭和54年)まで毎年続けられた後、24年中断期間を挟むこととなるが、2003年平成15年)に復活し以降毎年実施される至っている。

※この「その後の能代市」の解説は、「能代大火」の解説の一部です。
「その後の能代市」を含む「能代大火」の記事については、「能代大火」の概要を参照ください。

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