その後の能代市
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二度の大火によって能代市の街並みが生まれ変わった一方で、大火の代償として市の財政は危機的状況となった。第二次大火のあった昭和30年度は、昭和の大合併により近隣の山本郡檜山町、鶴形村、浅内村、常盤村を合併した年でもあるが、これら旧町村から引き継いだ赤字が2,300万円あった上に大火の被害も重なったために、同年の単年度収支は歳入3億4,800万円に対して歳出4億3,800万円と、差し引き8,900万円の財政赤字となった。第二次大火からの復興と並行して、市では財政の立て直しも迫られることとなった。第二次大火から1ヶ月半ほど後の1956年5月4日、市長の豊沢は臨時議会を招集して地方財政再建促進特別措置法の適用を諮った。同法の適用団体とされると地方自治に大きな制約を受ける一方で、大火からの復興に政府からの援助を必要とした能代市では、「財政再建への誠意がない団体」とみなされて不利な立場となることは避けねばならず、苦渋の提案であった。議会では当然激しく反発したが、自主再建の方途もないことから同意せざるを得ず、市ではただちに自治庁長官に再建計画を申請して、11月には承認されることとなった。11ヶ年に亘る再建計画期間は当時「北の能代、南の小松島」と言われたほどのワーストクラスであり、昭和30年代全期を通じて市では赤字解消に努めることとなった。 一方、二度の大火の時期によって苦境にあった市民を勇気づけたものに体操選手の小野喬、鍋谷鉄己の活躍が挙げられる。2人は1952年ヘルシンキオリンピックに出場、小野は跳馬競技で銅メダルを獲得した。小野は続く3大会(メルボルン、ローマ、東京にも出場し、メルボルン大会の鉄棒競技では日本人最初の金メダリストとなるなど、その後の日本体操界の第一人者となった。通算でのオリンピック獲得メダル数は個人10(金3、銀3、銅4)、団体3(金2、銀1)、合計13に及び、金メダル5は2016年(平成28年)時点で近代オリンピック個人第40位の記録となっている。彼らの活躍は「体操王国能代」の名を全国に轟かせ、小野は2017年(平成29年)に野呂田芳成、加藤廣志、山田久志とともに能代市市民栄誉賞の第一号受賞者となった。 また、この大火からの復興行事として始まったものに、能代の花火がある。二度の大火によって沈滞しがちであった市民の気分を一新するために、能代商工会議所にて、当時東北木材社長であった能登斌治の提案によって企画されたもので、1958年(昭和33年)に「全国花火競技大会」と銘打って第1回大会が開催された。この開催にあたっては、全国花火競技大会を開催していた先進地の大曲市(現在の大仙市)に学ぶため、同地の花火師佐藤欣一郎、富樫善弥と、日本煙火協会専務の松尾義雄の指導を仰いでいる。この花火大会は1979年(昭和54年)まで毎年続けられた後、24年の中断期間を挟むこととなるが、2003年(平成15年)に復活し、以降毎年実施されるに至っている。
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