その後の結婚歴と帰郷
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「アンリエット・ド・ロレーヌ」の記事における「その後の結婚歴と帰郷」の解説
所領を没収されたアンリエットは経済的な問題に直面したため、周囲は、教養もなく病弱だが裕福なピエモンテ人貴族、ソレーロ侯爵カルロ・グアスコ(Carlo Guasco)との再婚を勧めた。2人の婚礼は1643年10月11日にメヘレン大司教ヤコブス・ボーネン(英語版)の司式で執り行われたが、ソレーロ侯爵は翌1644年妻の権利によりリクセム及びファルスブール公を名乗ったものの、すぐに亡くなってしまう。1649年、ネーデルラント総督を務めたカステロ・ロドリゴ侯爵(英語版)の息子、ルミアレス伯爵クリストヴァン・デ・モウラ(Cristovão de Moura, Conde de Lumiares)と三度目の結婚をするが、こちらもすぐに死に別れた。その後、再び金銭問題のために、1652年アントウェルペンにて裕福なジェノヴァ人貴族のジュゼッペ・フランチェスコ・グリマルディ侯爵(Giuseppe Francesco Marchese Grimaldi)と四度目の結婚をした。グリマルディはアントウェルペンで事業を展開していた。アンリエットの兄シャルル4世はこの結婚に非常に不満で、一時はアンリエットやその夫を監禁したこともあった。しかし結局、グリマルディはシャルル4世からリクセム及びファルスブール公を名乗ることを認められた。 アンリエットはロレーヌ公国の復活が約束されるヴァンセンヌ条約(ドイツ語版)(1661年2月28日)の締結を待つことなく、フランス・スペイン戦争の終結が宣言されたピレネー条約(1659年11月7日)が結ばれるとまもなく、夫を連れてロレーヌに帰国した。居城の一つサンピニー城(フランス語版)は長年の戦争の影響で荒廃していたが、グリマルディの金で快適な住まいに修復された。アンリエットは自身の所領の一つヌフシャトーで暮らした。 ピレネー条約の交渉中、アンリエットはスペインの後ろ盾を得て、自身の以前の所領を全て回復することに成功した。ところがフランス王ルイ14世がファルスブールの地理的重要性を考慮してこの地域を割譲するよう求めてきたため、ファルスブールは戻ってこなかった。ファルスブールのフランス領への割譲はヴァンセンヌ条約の締結により確定した。アンリエットはこの条約が結ばれる直前、1660年11月16日にヌフシャトーで亡くなった。彼女の遺骸は最初の夫の眠るサンピニーのサント=リュシー教会に安置された。 アンリエットには跡を継ぐべき子がなかったため、1661年ロレーヌ公国宮廷会計局は、彼女の所領・資産は全てロレーヌ公に回収されると布告した。ただし、リクサイム公領とサンピニー城は例外で、これらは寡夫グリマルディが終身で保持すると定められた。グリマルディは義兄シャルル4世と和解し、ナンシーの宮廷で宮内長官として重用され、1663年にフランス王とロレーヌ公の間で結ばれたマルサル(英語版)条約の交渉を担当した。そして1670年、シャルル4世がフランス軍の侵攻を前にロレーヌを脱出すると、これに付き従った。グリマルディは1693年8月29日にサンピニーで死去し、遺骸は妻の葬られている教会に安置された。 妹マルグリットの継娘に当たるグランド・マドモワゼル(大姫君)は、アンリエットの生涯を題材とした物語文『ファルスブール女公の色恋(Les Amours de la princesse de Phalsbourg)』を執筆し、姻戚のおばアンリエットを嫌悪していたことをはっきりと表明している。
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