司式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 16:14 UTC 版)
教会によっては、聖餐式において、配餐に先立ち、コリントの信徒への手紙一11章23節-29節を朗読している。 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 しかしフリー聖餐派は、11章の20節から34節までを広範囲に読み、「当時のコリント教会では、聖餐は貧困者に対する炊き出しを兼ねていたものであった。しかし食べ物に困ってない人が食事を独占することによって、貧困者が食事にありつけないことがあったので、パウロはこれを戒めたに過ぎない」と解釈し、「ふさわしくないものは聖餐を受けられない」とするのは、聖句の一部を恣意的に抜き出した解釈であるとしている。 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。(23節-29節は重複のため省略)あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。 フリー聖餐派の教会では、この「コリント人への手紙一」を朗読することはなく、「この場に集った人は、集おうという意思をもった時点でみな聖餐を受けられる」「神の恵みは一方的に受けられるものであり、資格が必要であるとすれば、それは恵みではなく報酬になってしまう」などの文句を使用し、すべての会衆にパンとぶどう酒を分け与えている。[要出典]
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