聖句
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聖句(せいく)は、聖書の箇所を意味する語。ギリシャ語の"γραφή"(古典再建音転写: グラフェー、現代ギリシャ語転写: グラフィ)の訳語でもある。聖書を引用する時、聖句と書く場合がある(ただし教派によってはこの語彙が用いられないところもある)。
- ^ 岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』101頁、山本書店、2006年5月11日 増訂7版 ISBN 4841400303
- ^ a b 川原拓雄『現代ギリシア語辞典』50頁、リーベル出版、1992年9月1日 初版 ISBN 4897980003
- ^ 日々の聖句・ローズンゲン(ベテスダ奉仕女母の家、毎年発行)
- 1 聖句とは
- 2 聖句の概要
聖句
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聖句(聖書からの引用)のうち、エヴァンゲリスト(福音史家)はテノール、イエスやピラト、ペテロ、ユダと大祭司カイアファなどはバリトンあるいはバスで、集団は合唱で歌われる。マタイ受難曲中では、全体的に、真実は単純に、悪意や混乱は複雑な対位法で歌われる傾向がある。弟子達や一般の民衆等は四声部の合唱で、イエスに敵意を抱く祭司や長老をはじめとする群衆は八声部の二重合唱で歌われるが、群衆がイエスの言葉として Ich bin Gottes Sohn(私は神の子である)を引用する瞬間、全声部がユニゾンとなる。また「二人の偽証者」を表現するのに、二声部のカノンが用いられている。
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聖句
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「よろこべやたたえよや」の記事における「聖句」の解説
「かつ前にゆき後にしたがふ群衆よばはりて言ふ『ダビデの子にホサナ、讃むべきかな、主の御名によりて來る者。いと高き處にてホサナ』 — マタイ21:9、文語訳聖書 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」 — ゼカリヤ9:9、新改訳聖書
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聖句
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「おお永遠、そは雷のことば BWV20」の記事における「聖句」の解説
ルカによる福音書16:19-31「或富める人あり、紫色の衣と細布とを著て、日々奢り樂しめり。又ラザロといふ貧しき者あり、腫物にて腫れただれ、富める人の門に置かれ、その食卓より落つる物にて飽かんと思ふ。而して犬ども來りて其の腫物を舐れり。遂にこの貧しきもの死に、御使たちに携へられてアブラハムの懷裏に入れり。富める人もまた死にて葬られしが、黄泉にて苦惱の中より目を擧げて、遙にアブラハムと其の懷裏にをるラザロとを見る。乃ち呼びて言ふ「父アブラハムよ、我を憐みて、ラザロを遣し、その指の先を水に浸して我が舌を冷させ給へ、我はこの焔のなかに悶ゆるなり」アブラハム言ふ「子よ、憶へ、なんぢは生ける間なんぢの善き物を受け、ラザロは惡しき物を受けたり。今ここにて彼は慰められ、汝は悶ゆるなり。然のみならず、此處より汝らに渡り往かんとすとも得ず、其處より我らに來り得ぬために、我らと汝らとの間に大なる淵定めおかれたり」富める人また言ふ「さらば父よ、願はくは我が父の家にラザロを遣したまへ。我に五人の兄弟あり、この苦痛のところに來らぬよう、彼らに證せしめ給へ」アブラハム言ふ「彼らにはモーセと預言者とあり、之に聽くべし」富める人いふ「いな、父アブラハムよ、もし死人の中より彼らに往く者あらば、悔改めん」アブラハム言ふ「もしモーセと預言者とに聽かずば、たとひ死人の中より甦へる者ありとも、其の勸を納れざるべし」』
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聖句
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「汝らは我らの主イエス・キリストの恩惠を知る。即ち富める者にて在したれど、汝等のために貧しき者となり給へり。これ汝らが彼の貧窮によりて富める者とならん爲なり。」 — 第二コリント8:9、文語訳聖書
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聖句
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ルカ2章「此處に居るほどに、マリヤ月滿ちて、初子をうみ、之を布に包みて馬槽に臥させたり。旅舍にをる處なかりし故なり。この地に野宿して、夜群を守りをる牧者ありしが、主の使その傍らに立ち、主の榮光その周圍を照したれば、甚く懼る。御使かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜の音信を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒を見ん、是その徴なり』」
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聖句
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『マタイの福音書』5章45節には「…天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(新改訳第二版から)とある。神学的には、この恩寵には人の心のなかの良心の働きなども含まれている。
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聖句
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「それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。 — ヨハネ3:16、文語訳聖書 「我らに對する神の愛を我ら既に知り、かつ信ず。神は愛なり、愛に居る者は神に居り、神も亦かれに居給ふ。 — ヨハネの第一の書4:16、文語訳聖書
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聖句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/17 06:24 UTC 版)
「もし汝の兄弟罪を犯さば、往きてただ彼とのみ相對して諫めよ。もし聽かば其の兄弟を得たるなり。もし聽かずば、一人・二人を伴ひ往け、これ二三の證人の口に由りて、凡ての事の慥められん爲なり。もし彼等にも聽かずば、教會に告げよ。もし教會にも聽かずば、之を異邦人または取税人のごとき者とすべし」 — マタイ 18:15-17、文語訳聖書 「現に聞く所によれば、汝らの中に淫行ありと、而してその淫行は異邦人の中にもなき程にして、或人その父の妻を有てりと云ふ。斯くてもなほ汝ら誇ることをなし、かかる行爲をなしし者の除かれんことを願ひて悲しまざるか。われ身は汝らを離れ居れども、心は偕に在りて其處に居るごとく、かかる事を行ひし者を既に審きたり。すなはち汝ら及び我が靈の、我らの主イエスの能力をもて偕に集らんとき、主イエスの名によりて、斯くのごとき者をサタンに付さんとす、是その肉は亡されて、其の靈は主イエスの日に救はれん爲なり。汝らの誇は善からず。少しのパン種の、粉の團塊をみな膨れしむるを知らぬか。」 — 第一コリント 5:1-6、文語訳聖書 「われ前の書にて淫行の者と交るなと書き贈りしは、此の世の淫行の者、または貪欲のもの、奪ふ者、または偶像を拜む者と更に交るなと言ふにあらず(もし然せば世を離れざるを得ず)ただ兄弟と稱ふる者の中に、或は淫行のもの、或は貪欲のもの、或は偶像を拜む者、あるひは罵るもの、或は酒に醉ふもの、或は奪ふ者あらば、斯かる人と交ることなく、共に食する事だにすなとの意なり。外の者を審くことは我の干る所ならんや、汝らの審くは、ただ内の者ならずや。外にある者は神これを審き給ふ。かの惡しき者を汝らの中より退けよ。」 — 第一コリント 5:9-13、文語訳聖書 「聖書に『穀物を碾す牛に口籠を繋くべからず』また『勞動人のその價を得るは相應しきなり』と云へばなり。長老に對する訴訟は二三人の證人なくば受くべからず。罪を犯せる者をば衆の前にて責めよ、これ他の人をも懼れしめんためなり。」 — 第一テモテ5:18-20、文語訳聖書 「異端の者をば一度もしくは二度、訓戒して後これを棄てよ。」 — テトス3:10、文語訳聖書
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聖句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/15 02:53 UTC 版)
出エジプト17:11にイスラエルの指導者モーセが手を上げて祈った記事がある。また、使徒パウロの第一テモテ2:8は「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と願っている。
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聖句
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英語の原題はJoy Unspeakable(言葉に言い尽くせない喜び) であり、翻訳の題は『新改訳聖書』から「栄えに満ちた喜び」となっている。 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」 — 第一ペテロ1:8、新改訳聖書 Whom having not seen, ye love; in whom, though now ye see him not, yet believing, ye rejoice with joy unspeakable and full of glory: — 1 Peter 1:8、欽定訳聖書
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