フランス軍の侵攻
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「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「フランス軍の侵攻」の解説
教皇は自らの地位を手にいれる為にあらゆる同盟を結んだが、孤立を恐れる余りフランス王シャルル8世の助けを求めた。さらにナポリ王フェルディナンド1世が孫娘イザベッラを娶わせたミラノ公ジャン・ガレアッツォとの提携を図るようになると、シャルル8世をそそのかしてナポリ王国を狙わせている。アレクサンデル6世の外交政策は二重政策であった。一例を挙げれば、自らと一族の地位を脅かすナポリ王国の弱体化を狙いながらも、スペインの干渉を受けた為に1493年7月にナポリ王国およびオルシーニ家と和平協定を結んでいる。協定の履行の一環として、教皇の息子ホフレはフェルディナンド1世の孫娘ドーニャ・サンチャと結婚した。 アレクサンデル6世は教皇庁を完全に掌握する為、自分の息のかかった12人の新枢機卿を任命した。その中には僅か18歳に過ぎなかった息子のチェーザレや、教皇の愛人ジュリア・ベッラの兄アレッサンドロ・ファルネーゼ(後の教皇パウルス3世)も含まれていた。この教皇自身の息子の枢機卿任命は教皇庁をゆるがすスキャンダルとなったが、文句のつけようのない人物も幾人か登用され、列強にポストを分配する等の工夫によって非難をうまくかわした。 そんな時、1494年1月25日にナポリ王フェルディナンド1世が世を去り、息子のアルフォンソ2世が後を継いだ。フランス王シャルル8世は自らのナポリ王位継承を主張したが、教皇がこれを認めなかった為フランス軍のイタリア侵攻を引き起こした。 教皇は1494年7月にはアルフォンソ2世の継承権を承認し、領土と引き換えにナポリ王国と手を組んだ。各地でフランス軍の進撃への備えがなされ、ナポリ王国軍は陸上ではフランス勢に味方していたミラノを攻撃し、海上では艦隊によってジェノヴァを攻囲した。 しかし、教皇軍とナポリ軍はどちらの戦闘にも敗北し、9月8日、アルプスを越えたフランス軍はミラノ軍と合流を果たした。教皇領内に混乱が起きると、オルシーニ家の軍勢はフランス側についてオスティアを攻めた。シャルル8世は南下を続け、フィレンツェを通って11月にローマへ向かった。 アレクサンデル6世はたまらずアスカニオ・スフォルツァに助けを求め、さらにオスマン帝国にまで救援を求めた。彼はなんとか軍勢をかき集めてローマを守備しようとしたが統制がとれず、オルシーニ家は居城をフランス軍に提供する始末であった。ここに至って教皇も抵抗を諦め、12月31日にはシャルル8世とフランス派の枢機卿団がフランス軍と共にローマに入城した。 アレクサンデル6世はついに汚職の廉で退位させられ、公会議が召集されて断罪されるのかと恐れおののいたが、シャルル8世に強い影響力を持っていたサンマロ司教を枢機卿位と引きかえに抱き込む事に成功した。 シャルル8世は教皇の退位を求めない代わりに、教皇は使節という名目でチェーザレを差し出してナポリへ向かわせる事、オスマン帝国へのカードとなるジェムを引き渡す事、軍港チヴィタヴェッキアをフランスに割譲する事などの条件を呑んだ。なお、ローヴェレはオスティアからパリに亡命し、この遠征でフランス軍に同行していたが、アレクサンデル6世と和解、ローマへ戻った。 1495年1月28日、シャルル8世はナポリ王国を目指し、ジェムとチェーザレを伴ってローマを出発した。チェーザレは道中で脱走に成功し、スポレートに逃げ込んだ。フランス軍の勢いの前にナポリ王国は抵抗する術がなく、あっさりフランス軍の軍門に下り、ナポリ王は逃走した。
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