フランス軍とアメリカ軍の1781年の作戦
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「ヨークタウン方面作戦」の記事における「フランス軍とアメリカ軍の1781年の作戦」の解説
バージニアは1779年以前は軍事的な注目を浴びていなかった。この年、イギリス軍の襲撃によって造船所の多くが破壊され、重要な貿易品目であるタバコが大量に奪われるか廃却された。バージニアの防御力といえば地元で結成された民兵隊と1779年の襲撃で実質的に一掃された小さな海軍があるのみだった。民兵隊は大陸軍の将軍ストイベン男爵の全体指揮下にあった。ストイベンはプロイセン出身の怒りっぽい職業軍人であり、軍隊の訓練に優れた手腕を発揮したが、部下と疎遠になっているだけでなく、バージニア邦知事のトーマス・ジェファーソンとも難しい関係にあった。ストイベンは大陸軍の新兵のためにバージニアのチェスターフィールドに訓練所を設立し、また武器弾薬の製造と修理のためにウェストハムに「工場」を建設していた。 フランス軍の作戦参謀は1781年の作戦について競合する需要の平衡を取る必要があった。アメリカ軍との協働作戦で幾つか失敗(ロードアイランドの戦いやサバンナの包囲戦)した後、北アメリカではさらに積極的な介入が必要ということを認識していた。しかし、スペインとの協働作戦も考慮する必要があり、ジャマイカにあるイギリス軍の強固な基地を襲うことに興味を示していた。しかし、スペインは包囲しているジブラルタルの防衛軍をイギリス軍が補強しようとしていることに対処できるまではジャマイカに対する作戦に興味を持っていないことが分かり、単に西インド諸島の艦隊の動きを知らせてくれることを望んでいるだけだった。 フランス艦隊が1781年3月にフランスのブレストを出港しようとしているとき、幾つかの重要な決断が下された。ド・グラス伯爵が率いる西インド諸島艦隊はウィンドワード諸島で作戦行動を行った後、スペインの作戦を支援するために求められる資源を決定するためにキャップ・フランセ(現在のカパイシャン)に行くよう指示された。フランスは輸送船が不足していたためにアメリカには援軍を送る代わりに、アメリカの戦争遂行を支援するための600万リーブルを送ることも約束していた。ロードアイランドのニューポートにいたフランス艦隊には新しい指揮官としてド・バラス伯爵が指名された。ド・バラス伯爵はニューポートの艦隊を率いてノバスコシアやニューファンドランド島沖のイギリス船舶を攻撃するよう命じられ、ニューポートのフランス陸軍はニューヨーク市港外でワシントン将軍の軍隊と合流するよう命じられた。ド・グラス伯爵はワシントン将軍とは完全に行動を共にしないように配慮し、キャップ・フランセで碇泊した後に北アメリカにおけるアメリカ軍の作戦を支援するよう指示されていた。フランス軍の将軍ロシャンボー伯爵は、ド・グラス伯爵が支援できる「かもしれない」が約束はできないとワシントンに告げるよう指示されていた。ワシントンはパリに駐在するジョン・ローレンスからド・グラス伯爵が北へ向かう裁量権を持っていると知らされていた。 フランス艦隊は3月22日にブレストを出港した。イギリス艦隊はジブラルタル防衛軍に物資を補給することで追われており、その出港を阻止しようとはしなかった。フランス艦隊が出港した後、貨物船のコンコルドがニューポートに向かい、ド・バラス伯爵、ロシャンボー伯爵への伝言および貸付金600万リーブルを運んだ。ド・グラス伯爵はその後に送った別々の伝言で、2つの重要な要請をしていた。1つ目はキャップ・フランセで北アメリカの情勢を知らされることであり、それで北アメリカの作戦をどのように支援できるかを判断するためだった。2つ目は北アメリカの水域を知悉した水先人30人を補充することだった。
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