フランス軍に転属
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「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の記事における「フランス軍に転属」の解説
フランス軍に属してから最初の実戦は、三十年戦争の最中の1634年にフォルス公が指揮したロレーヌのラ・モト=アン=バシニー包囲戦であった。テュレンヌは突撃で見せた戦果で陸軍少将(maréchal de camp)に昇進、翌1635年にはヴァレット枢機卿指揮下において、ロレーヌとライン川で戦った。フランス軍とその同盟軍は8月8日にマインツが神聖ローマ帝国軍に包囲されると集結したが、フランス軍は食糧の欠乏からメスへ撤退しなければならなかった。テュレンヌは退却時に神聖ローマ帝国軍の将軍マティアス・ガラスと剣を交えており、その勇気と手腕から大いに名を上げた。再編成された軍は1636年に再度野戦をおこないサヴェルヌを攻略したが、この時の猛攻でテュレンヌは重傷を負った。 1637年にフランドル(スペイン領ネーデルラント)遠征に参加して7月26日にランドルシーを占領、翌1638年後半にフランス軍と契約した傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルの元で戦いドイツへ転戦、フランス軍を率いてライン川右岸の都市ブライザハを急襲・包囲し12月17日に降伏させた。テュレンヌは今や、フランスの若い軍幹部の中で将来を有望視される1人という評判をとった。 リシュリューは次に、テュレンヌをアルクール伯アンリ・ド・ロレーヌ指揮下のイタリア遠征の任務につかせた。1639年11月19日、彼はルート・ド・キエルの戦いと呼ばれる有名な後衛作戦で勝利した。これは冬期のトリノ城塞への再食糧供給の間に起こり、フランス軍とカリニャーノ公トンマーゾとの間で争われた。1640年、アルクール伯はカザーレ・モンフェッラートを救い、城塞内にフランス軍別働隊が立てこもる間に、トリノに立てこもるカリニャーノ公軍を包囲した。後者の包囲線は持ちこたえ、カリニャーノ公軍が9月17日に降伏させられる間、アルクール伯の連隊が退却を強いられ始めると同時に第4部隊が包囲した。今や陸軍中将となったテュレンヌは、これら複雑な作戦が好ましい結果を達成するのに主要な役回りをした。1641年の遠征で自身も戦い、クーネオ、チェヴァ、モンドヴィを占領した。 1642年、テュレンヌはルシヨンを征服したフランス軍の副司令官を務めた。同年、リシュリューはサン=マール侯及びオルレアン公ガストンの陰謀を摘発、テュレンヌの兄のブイヨン公フレデリックも加担者として捕らえスダン公国を取り上げている(ブイヨン公国は存続)。
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