転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:16 UTC 版)
安芸国賀茂郡中河内を本拠とした国人である大多和氏に生まれ、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕える。天文21年(1552年)12月28日、元就から「就」の偏諱を与えられ「就重」と名乗った。また、弘治元年(1555年)12月15日に「宗兵衛尉」の官途名を与えられた。 天文23年(1554年)6月5日、折敷畑の戦いにおいて陶晴賢軍の敵兵を討ち取り感状を与えられた。天文24年(1555年)3月10日に元就から安芸国安芸郡において温科の田5段と府中の田2町5段大、佐東郡北庄において畠3貫800文を与えられ、同年3月28日には、元就からいつでも命令があれば直ちに警固衆が出陣できるように準備するよう命じられている。 永禄4年(1561年)10月26日の豊前国門司における大友氏との合戦(門司城の戦い)においては一番槍の武功を挙げ、永禄6年(1562年)11月15日に伯耆国弓ヶ浜で尼子軍に夜討ちを受けた際には、就重が先駆けの敵を数人討ち取った。これらの武功に対して、それぞれ元就や隆元から感状が与えられている。 このように防芸引分以降、就重が多くの手柄を立てていることを児玉就方が取り上げ、就重自身もまた度々愁訴していたため、永禄7年(1564年)7月11日に安芸国佐東郡深川郷の内の10貫の地と周防国都濃郡矢地・富田の内の5貫の地を元就から与えられた。 永禄11年(1568年)11月5日、豊前国門司に籠城するべき者たちが共に籠城しなかった場合、即時に召し放って給地を没収するようにとの元就・輝元からの命を粟屋元久と共に受ける。 永禄13年(1570年)8月7日、屋敷分として安芸国沼田郡楠木において桑原分の畠7段1貫500目の地を元就から与えられた。 元亀2年(1571年)2月、児玉就方と共に備前国児島郡の本太城へ出陣し、村上武吉と戦った。
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