フランス軍のイタリア撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:08 UTC 版)
「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「フランス軍のイタリア撤退」の解説
しかし、シャルル8世もイタリアに安住しているわけにはいかなかった。シャルル8世の成功を危険視した諸侯が教皇を中心に結束し始めていた。 1495年3月31日、教皇は神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、ミラノ、スペインと同盟を結んだ。この同盟の名義は対オスマン帝国戦であったが、誰が見てもフランス包囲網である事は明らかであった。シャルル8世は5月12日にナポリ王として戴冠したが、すぐにフランス軍の撤収を開始した。 イタリア半島を北に向かうフランス軍はフォルノーヴォで初めて同盟軍と会戦し、激戦となったが、撤退に成功し11月にフランスに帰国する事ができた。その後、スペインの後押しをうけたアルフォンソ2世の子・フェルディナンド2世がナポリ王位に就き、1496年の死後、叔父のフェデリーコ1世が即位した。このフランス軍のイタリア半島侵入は、イタリアが侵略に対していかにもろいかという事を明らかにした。一方アレクサンデル6世はフランスを追い出す事に成功した事で、オルシーニ家に対して優位に立つ事となった。 スペイン軍に捕らわれたヴィルジニオ・オルシーニがナポリで獄死すると、教皇は直ちにその資産を没収した。オルシーニ家も一族の存亡をかけて抵抗した為、教皇はウルビーノ公とガンディア公を差し向けてこれを殲滅しようとした。しかし教皇の軍勢は敗北した為、ヴェネツィアの仲介で和平協定が結ばれた。オルシーニ家は50000ドゥカットを支払って没収された資産を返還してもらい、捕虜となったウルビーノ公は自腹で身代金を払って解放された。 結局、教皇はオスティアを手にいれ、フランスよりの2人の枢機卿を捕らえただけに終わった。7月14日、解放されて帰ってきたガンディア公ホアンが行方不明となり、翌日テヴェレ川に死体となって浮かんでいるのが発見された。息子のあまりにも不審な死に教皇は嘆き悲しみ、サンタンジェロ城に引きこもって「今こそ教会改革をしなければならない」と叫んだ。 犯人探しが進むと、何人もの有力者の名前が挙がり始め、ついに息子チェーザレの名前が浮かんだ。何故か捜査は途中で打ち切られ、真相は闇の中になったが、暗殺がチェーザレの指示によるものであるという噂はその直後から流れていた。彼はガンディア公ホアンが自分以上に父親に対して影響力を持ち始めているのを座視できなかったというのである。但し、ホアン自身度々有力者とトラブルを起こすような性格であったという説もあり、未だに真犯人はわからない。 なお、ジョスカン・デ・プレのモテト《わが息子、アブサロン Absalon, fili me》は、この時アレクサンデル6世の為に作曲されたとする説がある(Noble, Jeremy.1980. "Josquin Desprez 8-11" in The new Grove dictionary of music andmusicians.vol.9, pp 718-738)。
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