フランス軍の再武装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:10 UTC 版)
「マスタードム作戦」の記事における「フランス軍の再武装」の解説
9月13日、ベトナムに到着したグレイシーはすぐさま事態の深刻さを認識した。サイゴンでは共産主義者が率いる革命勢力が辛うじて権力を掌握していたが、行政システムは崩壊し、秩序は失われ、暴動や殺人が横行していた。未だ武装を保っている日本軍も、連合国軍への潜在的な脅威と見なされた。また、当初予定されていたアメリカ軍信号隊の派遣が政治的な理由で中止されたため、ビルマにある上級司令部とサイゴン間の通信に問題が生じていた。通信に関わる問題の解決には数週間掛かった。 この時点で、飛行場の保安業務は日本軍部隊が担当していた。オランダ領東インドなどのイギリス軍占領地でも同様に日本軍部隊が動員されていたことが知られており、やがて英米のメディアにおいて論争を招くこととなった。グレイシーの任務には日本軍の武装解除も含まれていたものの、兵力が不足し、治安が急速に悪化する中、防衛部隊として相当数の日本軍部隊を維持する必要があることも同時に明らかであった。 また、13日にはセディール少佐が旧総督官邸にフランス国旗を掲揚し、サイゴン市民の反発を招いた。 9月19日、SEACは第20師団に対し、サイゴン放送局(Radio Saigon)の占領およびベトミンによる各種放送の検閲の実施を命じたが、同時に内政問題への介入を禁ずる一見して矛盾する声明も発表した。同日、連合国委員会がベトミン臨時政府と会談を行った後、全ての新聞の廃刊、臨時政府による建物およびその他の資産の没収の禁止、全ての市民集会・デモ行進・武器携行の禁止、夜間外出禁止令の施行を定めた宣言を発表すると共に、ベトナム全土の警察・武装集団のリストを要求した。さらに戒厳令が布かれ、グレイシーは2個大隊相当の兵力でこれを執行することとなった。グレイシーはSEACに対し、一連の行動がフランス側との協議を経たものであるから、内政干渉には当たらないという旨を報告した。グレイシーによる布告は9月21日に発効されたが、兵力不足のため夜間外出禁止などを強制することはできなかった。第20師団司令部では、兵力を補強するべく日本軍部隊の動員が本格的に議論され始めた。グレイシーは反発を恐れて日本軍の投入に消極的だったが、結局は日本軍部隊も治安維持任務に参加することとなった。 また、戒厳令の布告に関連し、マウントバッテンとグレイシーの関係にも問題が生じていた。マウントバッテンはグレイシーが治安責任者に過ぎないと主張し、21日にも抗議を行ったものの、英国参謀長委員会(英語版)と英国外務省はグレイシーへの支持を表明した。 22日、フランス軍捕虜が解放され、再武装の後に治安維持任務へと投入された。グレイシーはこれによって兵力不足が解決されるものと考えていたが、まもなくして問題が起こった。英印軍はベトミンから奪還した政府庁舎をフランス軍へと引き渡したものの、同日中に起こった反乱で庁舎は奪還され、フランス兵らは捕虜とされた。この出来事が発端となり、フランス軍部隊の規律は崩壊し、彼らは報復と称してベトミンと思しき者を無差別に殺害し始めたのである。これにはフランスの民間人らも加わっていた。 北ベトナム側では、9月22日夜から23日にかけての衝突によって南部抗戦が開始されたとしている。現代のベトナム社会主義共和国においても、9月23日を「南部抗戦の日」として記念している。 その後、グレイシーはサイゴンにおけるベトミンの支配を緩和させるため、重要地点の警備をALFFIC部隊に交代させ、さらにフランス軍へと引き継いでいった。これはベトミンがフランスに対して直接これらの地点を明け渡さなかったことによる措置だった。
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