フランス軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 02:03 UTC 版)
「フォントノワの戦い (1745年)」の記事における「フランス軍の反撃」の解説
両堡塁間のギャップに押し入ることに成功したイギリス軍であるが、敵戦列を押し崩そうとするものの、ある程度まで行ったところで進撃速度が低下するようになった。前面の戦列を順調に後退させることができても、左右両側面に堡塁と、堡塁に支えられたフランス軍部隊を残しているため、イギリス軍の陣形は四角形の三辺にそれぞれ戦列を設けて敵に相対する配置となって正面への攻撃力が低下した。対してフランス軍の戦列は激しく湾曲しつつも連結の維持に成功し、周辺から駈けつけた部隊が随時穴を埋めたので、後退する正面部隊と左右両拠点との繋がりは途切れなかった。結果としてフランス軍の戦列は馬蹄型となり、敵に押し込まれているのが、逆から見るとイギリス軍を包み込むかのような配置となった。 後退するフランス軍戦列は後ろに控えていた騎兵戦列の位置に近づき、フランス軍騎兵はイギリス軍に対して数度に渡って突撃をかけた。しかしイギリス軍は強力な火力発揮によってこれをすべて跳ね返すことに成功した。この攻撃によってイギリス軍の進撃はさらに鈍化したものの、それでも彼らはなお止まらずに前進を続けており、対してフランス軍の歩兵予備が展開を終えるまでにはあと少しの時間を要した。イギリス軍の方でもひたすら砲弾を浴びせられている状況は変わっておらず、どこかの部隊が崩れそうになるとカンバーランドは自ら駈けつけてその部隊を立て直した。カンバーランドはオランダ軍にもう一度フォントノワを攻撃させて戦況の優位を確定的なものにしようとしたが、オランダ軍は砲撃のために戦意を喪失気味で、まったく動かないか、あるいは攻撃に出てもすぐに後退して役に立たなかった。イギリス軍の歩兵が健闘している間、イギリス軍の騎兵はずっと後方に待機しており、カンバーランドは彼らを有効に用いなかった。 フランス軍の司令部では、撃退され、編成の乱れた騎兵部隊が国王のいる所まで後退してくるような状況を見て、周辺の将軍達がまたも国王に避難を促すようになった。その時、戦場を駆け巡って埃まみれになったリシュリューが息を切らせ剣を片手に握ったまま国王の元に駆けて来た。 (ノアイユが)「どんな報告を持って来た?そして君の意見は?」「私の報告は」リシュリュー公は言った。「望めば、勝利は我々のものだということです。そして私の意見は、敵戦列の正面を押さえるためただちに4門の砲を動かすべきだということです。砲が敵戦列を乱している間に、陛下の護衛部隊や他の兵が彼らを包囲します。我々は徴発部隊のように彼らに当たればいい。今日という日が我々のものだということに、私は命を賭けます」「しかしフォントノワは」将軍たちは言った。「敵に押さえられたじゃないか」「私はフォントノワから来たんだ」公は言った。「フォントノワは健在である」「確認しなければ」彼らは言った。「元帥が砲をどのように使うかはさておき」彼は答えた。「他に使い道がない」彼は確信しており、そして他の者を説得した。国王こそはこの重要な提案の最初の支持者であり、やがて皆がこの意見に賛成した。 リシュリューは国王の陣所を守るために置かれていた砲4門を貰い受けて敵の正面に据え、最後まで残されていた国王の護衛部隊メゾン・ドゥ・ロワ(英語版)の投入を求めた。国王はこれを認め、リシュリューは彼らを率いて敵の前面に突撃した。ヴォルテールは『1741年戦争史』でその経緯を上のように書いたわけであるが、この描写がどこまで実際のやり取りに沿っているのかは疑問とされる所で、これだけ見ると他の将軍達は皆役立たずでリシュリューだけが勝利に貢献したように思えるが、Gandilhonは、ヴォルテールにはリシュリューの並外れて前向きな態度を読者に印象付けようとする意図があり、それはリシュリューがヴォルテールとは古い付き合いで、彼の保護者と見なされていたことと関係があるとの指摘を紹介している。しかし間違いないのは、リシュリューは戦況を冷静に捉えており、メゾン・ドゥ・ロワの突撃を指導したということである。この時王太子も剣を抜いて突撃に加わろうとしたが、周囲の者に止められて断念した。 リシュリューの突撃もイギリス軍を撃退するには至らなかったが、彼らの足は完全に止まり、イギリス軍は出血多量の限界に達して防御で手いっぱいとなっているのが傍目にも明らかとなっていた。攻守は逆転し、サックスはリシュリューに一度攻撃を中止させて態勢を整わせ、騎兵を正面に、歩兵を両側面に配置した上で三方からの一斉攻撃を図った。正面はリシュリューが担い、ウー堡塁の側はレーヴェンダール、フォントノワの側はビロン公が指揮した。この頃には有力な予備部隊であったアイルランド人旅団(英語版)やノルマンディー旅団が展開を完了しており、フランス軍の歩兵は立ち直っていた。 午後1時頃、攻撃が開始された。イギリス軍は右翼からはアイルランド人旅団やノルマンディー旅団の猛攻を受け、正面からは騎兵に突撃された。この時アイルランド兵は「リメンバー・リムリック(英語版)」と叫びながらイギリス軍に銃剣突撃をかけたと伝わる。サックスも病身であることを忘れジャンダルムリを自ら率いて突撃に加わった。少し遅れて左翼からも攻め立てられ、イギリス軍は袋叩きにされた。しかしイギリス軍はよく持ちこたえて総崩れになるようなことはなく、徐々に後退をはじめ、そのまま本格的な退却に移行した。この時イギリス軍は強力に攻められながらも戦列を維持し、膨大な数の死傷者をその場に残しながらも秩序を保って退却した。カンバーランドは退却の際も相変わらず兵士達に混ざって危険に身を曝していた。フランス軍の包囲から抜け出たイギリス軍はそのまま戦場からの離脱を目指し、オランダ軍、オーストリア軍も同様に撤退した。午後2時半頃、イギリス軍は戦場を離脱したが、まもなくさすがのイギリス軍も統制を失い、軍は敗走の態となった。
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フランス軍の反撃
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「グロースゲルシェンの戦い」の記事における「フランス軍の反撃」の解説
14時頃、シュターズィーデル付近の戦場にマルモン元帥率いる第6軍団の前衛が現れ、同時にナポレオンもすでにプロイセン軍が進攻していたカーヤ村に到来した。主力の到着後、これら四つの村に対する反撃が始まる。マルモン元帥、ベルトラン師団将軍とマクドナル元帥の軍団が来る前、連合軍と対峙するフランス軍は45,000名に過ぎなかったが、ヴィトゲンシュテイン大将は当初の数的優勢に乗じなかった。マルモン元帥はコンパン(英語版)、ボネ(英語版)両師団将軍率いる配下の師団をもってシュターズィーデルへの攻撃を開始する瞬間は、まだ来ていないと考えた。その間にスアム師団将軍は、プロイセン=ロシア連合軍を各村から再び追い払うことに成功する。ブリュッヒャー大将はヨルク中将指揮下の予備部隊を投入するまで、失われたクラインゲルシェン、アイスドルフとカーヤの各村の奪還を果たせなかった。到着しつつあるベルトラン師団将軍率いるフランス第4軍団の右翼では、16時頃にムシェルヴィッツ(ドイツ語版)の西方でモラン(英語版)師団が到着し、ゼーエステン(ドイツ語版)近郊で、ヴィンツィゲローデ(英語版)中将の騎兵に援護されていたベルク軍団の左翼を攻撃した。
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