ブルターニュ継承戦争への参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「ブルターニュ継承戦争への参戦」の解説
エドワード3世はフランドルに続いて他のフランス周辺地域も不安定化させることを狙っていた。ちょうどブルターニュ半島のブルターニュ公国(フランス王に臣従するという点においてフランス王国に属するが、実態的にはほぼ独立した領国)において1341年4月にブルターニュ公ジャン3世が崩御した。フランス王フィリップ6世がジャン3世の姪と結婚していたブロワ伯シャルルを公位継承者として支持したのに対抗し、エドワード3世はジャン3世の弟モンフォール伯ジャン・ド・モンフォールの継承を支持した。代わりにジャンはエドワードのフランス王即位を支持した。 モンフォール伯はブルターニュ公国の首都ナントを占領したが、フィリップ6世の息子ノルマンディー公ジャン率いるフランス軍の反撃に遭い、ナントを奪還されモンフォール伯も捕虜になった。しかしモンフォール伯妃ジャンヌ・ド・フランドル(フランス語版)がフランス軍への抵抗を続けて粘り、休戦協定が切れたところでエドワード3世もイングランド軍を率いてブルターニュに上陸し、モンフォール派の援軍にかけつけた。イングランド軍はモンフォール派のためにブルターニュのいくつかの都市を占領した。 ブロワ伯が再び劣勢になっていく中、1343年1月19日に教皇クレメンス6世が仲介を行い、マレストロワ条約(英語版)が締結されて1346年9月29日まで休戦となった。これによりエドワード3世は二人の公位継承者が雌雄を決しえない状況下でモンフォール伯を保護するという名目でブルターニュ半島にイングランド軍を駐屯させられるようになった。このことの戦略的な重要性は、ただちに反撃される危険なしでノルマンディーの最も弱い地点である西側から攻撃することを可能とした点だった。
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