ブルターニュ隠棲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:32 UTC 版)
「サン=ポル=ルー」の記事における「ブルターニュ隠棲」の解説
1891年に裁縫師のアメリ=アンリエット・ベロルジェに出会い、以後12年間はユニオン・リーブルの関係のまま四子をもうけた(アメリは1923年に死去)。ベルギーに移住したのは第一子クシリアンが生まれた翌年のことであり、これは雑誌出版などによる債務が重なったためとされる。いったんパリに戻ったが、まもなく、アパートを引き払い、1898年7月にブルターニュの最西端クロゾン半島(フランス語版)のロスカンヴェル(フィニステール県)に藁葺き農家を購入して、1903年までこの地に暮らした。1898年には第四子で一人娘のディヴィーヌが生まれた。「ディヴィーヌの藁葺き農家」と名付けたこの家が手狭になり、ロスカンヴェルから南へ8キロほどのところにあるカマレ=シュル=メールに移り住み、ペナドの浜を見下ろす高台にある漁師の家を購入し、異国風の館に改装した。当初はブールトゥー邸と名付けられたが、長男クシリアンがヴォクワ(フランス語版)(ムーズ県)の前線で戦死すると、クシリアン邸に改名した。サン=ポル=ルーはこの館に多くの作家や芸術家を迎え入れた。1923年9月にはブルトンが訪れ、エルンストとジャン・ムーランは常連であった。 1940年6月23日の夜、ドイツ兵が館に忍び込み、サン=ポル=ルーを殴り倒した後、家政婦ローズを殺害し、娘ディヴィーヌに暴行を加えた。数日後に再びナチスが侵入し、家中を荒らし回り、未発表原稿の大部分を破り、焼き払った。これはサン=ポル=ルーが1933年に執筆した記事「キリストの嘆願」でナチス・ドイツの反ユダヤ主義を批判したことと関係があるのではないかと考えられている。この記事はユダヤ系ドイツ人のアルベルト・アインシュタインに捧げられたものであり、1933年はヒトラー内閣が成立し、アインシュタインが亡命した年である。サン=ポル=ルーは事件の4か月後の1940年10月18日に、失意のうちにブレストの病院で死去した。享年79歳。 ドイツ軍はクシリアン邸を没収・占領したため、1944年に連合軍によって空爆された。現在は塔の一部が残るのみで廃墟となっている。サン=ポル=ルー友の会は現在、クシリアン邸の再建のために署名活動を行っている。
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