ブルターニュ相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 04:07 UTC 版)
「ジャン5世 (ブルターニュ公)」の記事における「ブルターニュ相続」の解説
ヴァンヌのエルミーヌ城で誕生。1399年、10歳で父が死去するが、父はかつての政敵であるオリヴィエ・ド・クリッソンを子供達の後見に指名していた。クリッソンは後見役を忠実に果たし、フランス王シャルル6世の支持を得て、同年末には継承権を主張しようとしていたブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)や娘マルグリットの婿ジャン1世・ド・シャティヨン(フランス語版)などを抑え、ジャン5世を無事にブルターニュ公位につけた。そしてシャルル6世とイザボー・ド・バヴィエールの間に生まれたジャンヌ・ド・フランスと結婚させ、ブルゴーニュ公を共同の後見人とした。 同時期にイングランド王族ヘンリー・オブ・ボリングブルック(後のイングランド王ヘンリー4世)が従兄弟であるリチャード2世によって追放され、父によってナントに保護されている際に、母ジャンヌはボリングブルックに籠絡されたとされる。そのため、1399年に父が死去した後、母はイングランド王に即位したヘンリー4世と1403年に再婚してイングランドに渡った。クリッソンはシャルル6世と相談して、ジャン5世とその弟3人をイングランドに連れ去られないように手を打った。ジャン5世は兄弟と共に豪胆公に引き取られフランス宮廷で育った。 成長してからはフランスの内乱に巻き込まれ、オルレアン派(後のアルマニャック派)とブルゴーニュ派の政争ではオルレアン派に入り、1406年にブルゴーニュ派の首領で豪胆公の息子のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)が娘イザベルをオリヴィエ・ド・ブロワ(ジャン1世・ド・シャティヨンとマルグリットの息子)と結婚させたことに反発、妹ブランシュをアルマニャック伯ベルナール7世の息子ジャンに嫁がせた。オリヴィエの実家パンティエーヴル家はかつて継承戦争で父と敵対した過去があり、無怖公がブルターニュへ介入すると警戒したジャン5世は以後オルレアン派へ接近していく。 1410年にベリー公ジャン1世の主導で結成されたジアン同盟に加わり、オルレアン公シャルル、アルマニャック伯を頭にブルボン公ジャン1世・クレルモン伯シャルル父子と妹マリーの夫アランソン伯(後にアランソン公)ジャン1世も参加しアルマニャック派が結成された。ジャン5世は積極的に戦闘を行わなかったが、弟のリッシュモンはアルマニャック派の部将としてブルゴーニュ派と戦った。 1415年8月、イングランド王ヘンリー5世が北フランスに上陸、アルマニャック派がイングランド軍を倒そうとして10月25日のアジャンクールの戦いで大敗した。ジャン5世は8000人の援軍を連れて戦場へ向かおうとしたが間に合わず、義弟は戦死して弟がオルレアン公とブルボン公共々イングランドに捕らえられる事態となった。イングランドに住んでいた母もこの頃にはヘンリー5世に冷遇され、身内を2人も人質に取られたジャン5世は外交上迂闊な行動が取れなかった。以後彼はイングランドとフランスの間を行ったり来たりすることを繰り返していく。
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