ブルターニュ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ブルターニュ問題」の解説
1490年、マクシミリアンはフランスを挟撃するため、ブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ女公と婚約し、代理人を派遣して結婚式を挙げた。さらにハンガリーに制圧されていたオーストリア諸都市の奪回を進め、同年8月にハンガリー軍からウィーンを解放した。しかし父フリードリヒ3世の命により、対ハンガリー政策に専念せざるを得なくなり、アンヌとの正式な結婚は先送りにされた。 1491年、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻、首都レンヌを包囲し、孤立したアンヌに結婚を迫った。同年12月6日にアンヌはシャルル8世と結婚し、1492年2月15日にローマ教皇インノケンティウス8世がシャルルとアンヌの結婚の追認とシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦したため、マクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念した。マクシミリアンは娘の帰国を要求して何か月間もフランスと交渉を続けたが、マルグリットをフランスの侯爵と縁付かせ、彼女の婚資をフランスへ併合しようという目論みのため、交渉は平行線をたどった。マクシミリアンは自分と娘が世に笑い者にされた屈辱とフランスのあざとさに激怒し、開戦した。 1492年10月、ネーデルラントにおける叛乱が終結し、同地におけるハプスブルク家の統治が確立した。同年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)に侵攻、翌1493年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほぼ全域を奪還し、フランス側の譲歩を引き出すことに成功した。 1493年5月23日、サンリスの和約(英語版)が締結され、マルグリットのフランスからネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定された。この時からハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になった。これが解消されるのは、18世紀の「外交革命」まで待たねばならない。
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