ブルターニュ公の後見人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 06:42 UTC 版)
「オリヴィエ・ド・クリッソン」の記事における「ブルターニュ公の後見人」の解説
1395年にジャン4世とクリッソンは和解、1399年にジャン4世が死亡すると、4人の息子と3人の娘の後見人にかつての仇敵であるクリッソンが指名されており、クリッソンはモンフォール家の子女達に対して忠実に任務を果たした。これに対し、クリッソンの娘マルグリットはジョスラン城を囲み後見を反故するように求めた。ジャン4世の遺児たちを暗殺するように求めたとの噂もたったが、クリッソンは頑として拒否、娘を殴ろうとしたため、マルグリットは逃げ出した際足を骨折、一生歩行困難となった。 1400年には他に継承権を主張しそうな人物を抑えて、ジャン4世の同名の嫡男ジャンを新たなブルターニュ公ジャン5世として即位させると、シャルル6世の三女ジャンヌと結婚させ、次男のアルテュールをかつての敵だった豪胆公に後見させた。またブルターニュ施設官とブルターニュ議会に認められた。1402年に彼らの母親ジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランド王ヘンリー4世と再婚することになったが、4人の息子がイングランドに連れ去られることがないよう手を打っている。 1407年、71歳でジョスラン城において死亡した。
※この「ブルターニュ公の後見人」の解説は、「オリヴィエ・ド・クリッソン」の解説の一部です。
「ブルターニュ公の後見人」を含む「オリヴィエ・ド・クリッソン」の記事については、「オリヴィエ・ド・クリッソン」の概要を参照ください。
- ブルターニュ公の後見人のページへのリンク