ハプスブルク家の統治
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「ポルトガルの歴史」の記事における「ハプスブルク家の統治」の解説
1578年に国王セバスティアン1世が未婚のままアルカセル・キビールの戦いで戦死すると、彼の大叔父である枢機卿ドン・エンリケが王位に就くが、ドン・エンリケにも嗣子はいなかった。1580年1月にエンリケ1世は後継者を決定しないまま没し、マヌエル1世の孫たちが王位継承権を主張した。大部分の貴族、知識人、官僚、商人の支持を集めるスペイン王フェリペ2世と、民衆からの人気が高いクラトの修道院長ドン・アントニオが争い、フェリペ2世が派遣したスペイン軍は各地で勝利を収めた。1581年4月にトマールで開催されたコルテスでフェリペ2世はポルトガル国王として承認され、イベリア半島にスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合が成立した。 フェリペ2世は甥のアルベルト・デ・アウストリアをポルトガル総督に任命し、評議会との合議制を敷いてポルトガルを統治した。フェリペ2世はポルトガルで寛大な統治を実施し、ポルトガルの自治が尊重されただけでなくポルトガル人はスペイン国内でも優遇を受けた。ポルトガルは宮廷の維持費の負担から解放され、スペインとの間にもうけられた国境税関の廃止、新大陸のスペイン領への進出によって商人は大きな恩恵を受ける。この結果ポルトガル経済は回復し、植民地の経営状態も良化する。スペインの首都をリスボンに遷都する計画が立てられ、リスボンとトレドを結ぶテージョ川の運河の建設が始められたが、利権の喪失を恐れるセビリアの反対によって計画は頓挫した。1588年に実施されたスペイン艦隊のイギリス遠征にはポルトガル艦船も加わっていたが、同年夏のアルマダの海戦でスペイン艦隊はイギリス艦隊に敗北し、ポルトガルの海運も痛手を受けた。 1598年のサントメ島とプリンシペ島の攻撃を皮切りに海外のポルトガルの支配領域であるアジア、西アフリカ、ブラジルでポルトガルとオランダの抗争が起こり、戦争は1663年のインドのマラバールの陥落まで続いた。オランダの進出によってアジアにおけるポルトガル人の勢力は大きく減退するが、オランダは西アフリカ、ブラジルから退却せざるを得なかった。 東アフリカのポルトガルの拠点は1538年にアデンがオスマン帝国に占領された直後から圧力を受けるようになり、1585年から1586年の間にオスマン帝国のミール・アリ・ベイによってマリンディを除くポルトガルの拠点が奪われた。ポルトガルは敵対的なスワヒリ都市のモンバサとオスマン帝国の連携を阻止するため、1592年にマリンディと連合してモンバサを攻撃した。モンバサを占領したポルトガルは島にフォート・ジーザスを建設し、この地を拠点として半世紀ほど東アフリカでの軍事的優位を保つ。ペルシア湾方面のポルトガル植民地はサファヴィー朝イランの攻撃に晒され、1602年にバーレーン島、1622年にホルムズが奪われる。 フェリペ3世の時代から次第にポルトガルの自治は遵守されなくなり、総督、評議会の人員にスペイン人が任命されるようになり、1611年には「借款」という名目の増税が実施される。1610年代から新大陸から輸出される銀の量が減少しただけでなく、スペインにはオランダ、三十年戦争で対立するフランスとの抗争のために多額の戦費がのしかかっていた。フェリペ4世の宰相であるオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンはカスティーリャの財政負担を和らげるため、スペイン王国を構成するポルトガルとカタルーニャに与えられていた特権を廃し、カスティーリャを中核とする中央集権化を試みた。スペインの抑圧が強くなるに連れて民衆の間にスペイン支配に対する反感と、生存していたセバスティアン1世がポルトガルを解放する救世主信仰(セバスティアニズモ)が湧き上がる。1637年にエヴォラで増税に反発した民衆は反乱を起こし、暴動の影響はアレンテージョとアルガルヴェにも及んだ。また、民衆だけでなく貴族層もカスティーリャ中心の政策とコルテスの決議を経ない増税に対して不満を抱いていた。 1640年6月にカタルーニャの住民が暴動を起こしてスペインから派遣された副王を殺害し、カタルーニャ自治行政府はフランスと協定を結んでカスティーリャからの反撃に備えた。ポルトガルに生まれつつあった反カスティーリャ運動を事前に阻止するため、オリバーレス伯はポルトガルの貴族にカタルーニャ遠征への従軍を命じた。1640年12月に40人の貴族と知識人がリスボンの王宮を襲撃し、副王マルガリーダを逮捕した。国王に推戴されたブラガンサ公ドン・ジョアンはジョアン4世として即位し、ブラガンサ王朝を創始した。
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ハプスブルク家の統治(1437年-1918年)
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「チェコの歴史」の記事における「ハプスブルク家の統治(1437年-1918年)」の解説
ルクセンブルク王朝断絶後、神聖ローマ皇帝にアルブレヒト2世が即位したことで、ボヘミアはハプスブルク家の支配下に置かれる。しかし、ポーランド王国(ヤゲロー朝)、ハンガリー王国と実質的な支配者は転々とした。オスマン帝国がモハーチの戦いでハンガリーを滅ぼすと、ボヘミア議会はフェルディナント1世をボヘミア王に選出した。このころからボヘミアは領主階級から地主階級へと変質した貴族による議会がボヘミア王を選挙するようになった。 ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝とボヘミア王を兼ねるようになると、プラハは神聖ローマ皇帝の王宮、政治や文化の中心として発展した。とりわけルドルフ2世(在位:1576年 - 1612年、ボヘミア王は1575年 - 1612年)は、プラハ城を主たる居城とした。教養人だったルドルフ2世は文化や芸術を保護したため、その下にはルーラント・サーフェリーをはじめとする多数の芸術家が集まり、帝国の首都としてプラハは文化的に大いに繁栄した。
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ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世)
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「オランダの宗教改革」の記事における「ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世)」の解説
1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。この17州が具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとは言えず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は不特定多数の寓意でもあったので、それに由来するのではという示唆もホイジンガから出されている 1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。
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ハプスブルク家の統治
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「ウィーンの歴史」の記事における「ハプスブルク家の統治」の解説
当時のハプスブルク家は、スイス・アルザスなどを勢力基盤とする弱小貴族であった。財政基盤も脆弱であり、プシェミスル家と比べウィーンに対して厳しい徴税を行う必要があった。このため、ウィーン市民の中には、ハプスブルク家の統治に対して否定的な姿勢をとるものも多く、13世紀末には幾度か反ハプスブルク家の反乱も起こった。このため、一時的に様々な都市特権が剥奪されることもあった。しかし、商業都市としてのウィーンは一層の発展をみせた。引き続きドナウ川の水運が盛んだった上、当時の中欧世界ではボヘミア王国で鋳造されたグロシュ銀貨、ハンガリー王国のフォリント金貨という信頼性の高い銀貨、金貨が流通しており、中欧の経済発展に大きく寄与していたことが指摘できよう。 14世紀に入ると、多少ハプスブルク家とウィーン市民の関係は修復された。建設公とも称される大公ルドルフ4世のもとで、シュテファン大聖堂、マリア・アン・ゲスターデ寺院など様々な建造物が改修、建築された。この時代は、ルドルフ4世の政敵であるボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)がプラハを王国の都として発展させている時期で、カレルのもとでプラハ大学も創設されていた。ハプスブルク家、そしてウィーンの地位発揚のためにも、ウィーンの発展は必要であった。こうした中、1365年にはウィーン大学が建てられている。ただしこの頃、1348年から翌年にかけてペストが大流行しており、街の発展は一時停滞した。 ベーメン(プシェミスル家)、スイス(ハプスブルク家)などを勢力基盤とした諸侯の統治下にあったことや、ドナウ川の水運が各地を結んだことなどから、ウィーンはコスモポリタン的な性格を早くから有していた。そうした中、ウィーンには多くのユダヤ人も生活していた。11世紀末より十字軍運動が高揚し、ローマ教皇は異教徒廃絶の姿勢を強めて各地のユダヤ人に諸侯などを通じ強い圧力をかけたが、バーベンベルク家、ハプスブルク家の歴代君主は総じてユダヤ人に寛大だった。14世紀半ばのペスト大流行の際には各地で反ユダヤ主義が広がったが、ウィーンではこうした風潮は限定的であった。しかし、15世紀前半よりユダヤ人への迫害が強められた。1419年よりベーメンで反ハプスブルクのフス戦争が起こっていた際に、彼らに武器を供与していたという嫌疑がかけられ、1420年から翌年にかけてウィーンのユダヤ人に対する大規模な迫害が行われた。この迫害には、富裕なユダヤ人の財産を没収して、ハプスブルク家の財政を再建させる狙いもあったとされる。しかし、この後もたびたび財政難に陥るハプスブルク家にとって、ユダヤ人の資本力や彼らの商業ネットワークは魅力的であったため、たびたび彼らを受け入れて活用しようとした。 15世紀半ばよりハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、ウィーンはその中心都市となった。しかし、それでもウィーン市民はハプスブルク家の歴代皇帝に対して必ずしも従順ではなかった。ハプスブルク家内部の所領相続問題と皇帝のウィーン市長人事への介入に対する反発が結びつき、1462年にはウィーン市民は蜂起して皇帝フリードリヒ3世がいた王宮を2ヶ月弱包囲することもあった。1480年代よりハンガリー王マーチャーシュ1世に占領されたが、1490年にマーチャーシュ1世はウィーンで死去し、再びハプスブルク家の支配に戻った。しかし、市民の蜂起を恐れたフリードリヒ3世はリンツにとどまり続けた。次代のマクシミリアン1世もインスブルックに宮廷をおき、ウィーンをことさら重視することはなかった。1522年にもウィーン市長を含めた都市の有力者がハプスブルク家に反乱を起こし、鎮圧されている。
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