暴動の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 22:48 UTC 版)
政府は反乱軍を少数派の過激派と扱ったものの、ルイ・フィリップは2年前の7月革命でシャルル10世に対してよりも熱心に対応した。国王が公衆の面前に出ると、彼の支持者は喝采を以って迎えた。警察を指示していた外相セバスティアニ将軍(フランス語版)は、事件に巻き込まれた民衆は「成功を祝して、『国王万歳(Vive le Roi)』や『自由万歳(Vive la liberté)』と喜んで斉唱する」と祝いの言葉を述べたと記録している。事後調査により、叛徒の66%は建築労働者など労働者階級であり、残りは店員などであったことが解明された。 暴動後、多くの銃火器が回収され、所持すると軍法に問われる可能性があるようになった。革命で政権を得た政府は、自らの手により過去の革命を遠ざけることとなった。フランス政府が1831年に7月革命を記念するためとして3000フランで買い上げたドラクロアの絵画『民衆を導く自由の女神』の展示も止められた。アルバート・ボイム(英語版)は、「1832年6月のラマルク将軍の葬儀の際の暴動後、それが再び公然と悪い例を示すことを恐れて展示されなかった。」と述べている。 ミシェル・ジョフロワという男は、赤旗を振って暴動のきっかけを作ったということで逮捕された。最初は死刑が宣告されたが、司法上の手続きを重ねるうち、かなり減刑された懲役刑に落ち着いた。その後、同様に死刑判決については全てが減刑された。 一部の叛徒は、法廷でレプブリカンとしての主張を行った。指導者の一人シャルル・ジャンヌの裁判では、誇りを持って自らを弁護した。彼は有罪となり懲役刑を課せられ、1837年に刑務所で死亡したが、それはレプブリカンの殉教者とされた。1836年のパンフレットにおいて、レプブリカンの敗北は、テルモピュライの戦いにおける300人のスパルタ兵の英雄的な抵抗に擬せられた。 レプブリカンは高潔で、忍耐強い;...彼は、300のスパルタ兵を率いテルモピュライで戦死したレオニダス王に擬せられる; 彼は、60000の兵がサン・メリ回廊に近づくのを、48時間にわたり耐え、… 栄光の死を得るために銃剣に身を投げた72人の英雄なのである。 1848年、七月王政は二月革命により打倒され、短命となった第二共和政がそれに代わった。フリードリヒ・エンゲルスは、1848年革命に関して論じた回顧集で「六月革命」といっている。すなわち、 二月革命は、六月暴動の戦術的な失敗―性急に市庁舎に向かってしまった点等―を研究し、それを避けたことによりうまくいったと論じている。
※この「暴動の影響」の解説は、「六月暴動」の解説の一部です。
「暴動の影響」を含む「六月暴動」の記事については、「六月暴動」の概要を参照ください。
- 暴動の影響のページへのリンク