シャルル10世とは? わかりやすく解説

シャルル10世 (フランス王)

(シャルル10世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 07:11 UTC 版)

シャルル10世フランス語: Charles X1757年10月9日 - 1836年11月6日[1])は、復古王政ブルボン朝最後のフランス国王(在位: 1824年9月16日 - 1830年8月2日)である。ナバラ国王としてはカルロス5世バスク語: Karlos V.a)。


  1. ^ a b c d "Charles X". Encyclopædia Britannica (英語). 2023年4月19日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Charles X. (King of France)" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 5 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 921–922.
  3. ^ a b "シャルル[10世]". 世界大百科事典 第2版. コトバンクより2023年4月19日閲覧
  4. ^ a b c d "シャルル(10世)". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年4月19日閲覧
  5. ^ "十億フラン法". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年4月19日閲覧
  6. ^ "マルティニャック". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年4月19日閲覧
  7. ^ "七月勅令". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年4月19日閲覧
  8. ^ a b シャルル10世の遺骨返還めぐり火花、仏歴史団体と埋葬」『毎日新聞』、2016年10月13日。2023年4月19日閲覧。オリジナルの2016年11月9日時点におけるアーカイブ。
  9. ^ a b c d e Garnier, Édouard (1863). Tableaux généalogiques des Souverains de la France et de ses grands Feudataires (フランス語). Paris. Tableau XIII.


「シャルル10世 (フランス王)」の続きの解説一覧

シャルル10世(1824年–1830年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 12:29 UTC 版)

フランス復古王政」の記事における「シャルル10世(1824年1830年)」の解説

ユルトラの指導者であるシャルル10世が即位した頃、代議院はユルトラが掌握していたため、ヴィレール(英語版内閣続投することが可能となり、ユルトラはルイ18世という最後の「歯止め」から解放された。革命後の数年間、国民キリスト教の信仰復興経験していたため、ユルトラはローマ・カトリック教会復権好機とらえた1801年協約英語版)に代わり1817年6月11日協約英語版)が調印された(ただし、発効には至らなかった)。ヴィレール内閣は、多く代議士所属する信仰騎士団フランス語版)の圧力を受け、聖体窃盗尊属殺同様に死刑罰す涜聖法(英語版)案の採決1825年1月行った同法には適用例がなく、立法化には象徴的な意味しかなかったが、同法通過は特にドクトリネール(英語版)の間で大い物議を醸した1825年5月29日、シャルル10世はランス戴冠しアンシャン・レジーム下の聖別式(英語版)の壮麗さ思わせる豪華かつ壮大な式典催された。ヴィレールの要請新たに加えられた点もあり、シャルル10世は1814年憲章反対していたが、かつてのナポレオン麾下将軍4人に付き添われ憲章への宣誓行ったランス大聖堂には祭壇玉座融合を表す装飾施され建築家のシャルル・ペルシエ(英語版)は自身の得意とするローマ風の帝政様式ではなく中世風のネオ・ゴシック建築建物装飾した。シャルル10世は、496年に一羽のハト天からもたらしたという伝説聖油聖別され祭壇前にひざまずき指輪王笏正義の手そして王冠受け取った。さらに、シャルル10世は瘰癧患者らに手を触れ、うち若干名回復例があったという。ユーゴーラマルティーヌロッシーニらは式典称賛したが、批評家警戒深めたベランジェは「シャルル単純王聖別式(le Sacre de Charles-le-Simple)」と題する詩で国王痛烈に風刺したこの他、シャルル10世の裏イエズス会の影ありと非難する者までいた。 式典の数か月前、議会革命中に所有地を没収され亡命貴族対す補償立法行ったまた、議会すべての子による土地均分相続認めて長子相続制廃止することを承認した。この補償法はルイ18世治世下で企画立案されたものであったが、シャルル10世は同法成立重要な役割果たした国債利率(rente)を5%から3%に切り替え利払い節減し国庫に年3,000フラン確保しようとする補償予算関連法案議会提案された。ヴィレール内閣は、金利生活者(rentiers)は原始投資額に比して収益過剰になってきており、再分配亡命貴族革命前フランス合わせようとする妥当なものだと主張したしかるに反対者はユルトラが弱小出資者から金を巻き上げて不実な貴族に手渡そうとしていると非難した貴族院にはドゥカズ時代任命され議員中心に自由主義的な議員らがまだ在職しており、結局この補償予算関連法案貴族院否決された。4月亡命貴族対す補償法案議会通過したところ、国庫負担は約9億8,800フランとされ(le milliard des émigrés(フランス語版))、利率3%・総額6億フラン国債発行して財源確保するものとされた。毎年1,800フラン亡命貴族支払われた。 国債市場価格下落し国庫からの支払思いのほか遅れた補償対象者の4分の1は年250フラン受け取っただけであった議会通過するに際して法律付され条件1つとして国有財産英語版取得者所有権保障されるものとされたが、これを受けて国有財産価格高騰したため、皮肉にも主たる受益者は約100万人の国有財取得者であったようである。 1826年、ヴィレールは長子相続制復活する法案提出したが、これは少なくとも大土地所有者にとっては別段選択もしない限り自然なことであった自由主義的な貴族院議員新聞反対し、シャトーブリアンのように、ユルトラの中にも反対する者が現れた。強力な批判受けた政府は、1824年検閲大幅に廃止していたのを撤回し報道の自由制限する法案12月提出した。しかし、これは反ユルトラ派の怒り増しただけで、この長子相続法案退けられた。 1827年、ヴィレール内閣シャトーブリアン記事擁するジュルナル・デ・デバ(英語版)(論争新聞)を含む自由主義的な新聞からの批判増大直面した。反ヴィレール系のユルトラの急先鋒であるシャトーブリアン検閲立法1827年7月24日新法検閲復活した)に反対する人々結んで出版の自由友の会(société des amis de la liberté de la presse)」を結成した。これに寄与した者の中にはショワズール=スタンヴィル(英語版)、サルヴァンディー(英語版)、ヴィルマン(英語版)らがいた。他の有力な結社としては「天は自ら助くる者を助く英語版)(Aide-toi, le ciel t'aidera)」があり、20人以上の無許可集会禁止する法律範囲内活動した。同派は反対潮流高まり勢いづけられてより自由主義的な位置属した(ル・グローブ (Le Globe) (地球)紙と提携した)。この参加者中にはギゾーレミュザ英語版)、バロ英語版)らがいた。検閲法の網をくぐるパンフレット頒布され、1827年11月選挙英語版)の選挙では親政府派の公職者対抗する自由主義者候補者に対して同派からの組織的支援寄せられた。 1827年4月国王とヴィレールは国民衛兵反抗直面した。シャルル10世が国民衛兵隊の観兵式臨んだ際、国王政府に不満を抱く兵士国王表敬せよとの命令反し敬虔なカトリック教徒国王の姪にあたるマリー・テレーズ王太子妃向かってイエズス会罵倒する叫び声をあげたのである自由主義者将校部隊率いて官邸抗議しに来たため、ヴィレールはもっとひどい扱い受けた。その報復として国民衛兵解散された。パンフレット拡散され続け9月出回ったものでは、シャルル10世が北部諸県行幸に際してサン=トメールに身を隠されながら教皇結託して十分の一税復活画策し近衛隊に身を守られながら憲章一時停止した、と非難するものがあった。 選挙時期までに穏健王党派立憲派)もシャルル10世に反目し始めたが、その一因1825年財政危機補償法を通過させた政府責任とされて実業界離反したことにあったユーゴーをはじめ多く作家もシャルル10世の治世下の世の中現実失望して体制批判始めた1824年の選挙から最新書類提出怠った一定の選挙人について各県知事による選挙人登録の抹消始まったが、反対者委員会はこれに対抗し9月30日選挙人登録期限備えてできるだけ多く選挙人登録が得られるよう奔走した当初名簿の6万人上乗せし1万8,000人の選挙人追加登録された。選挙権ありついて政府支持に回る人々登録しようという知事思惑もあるにはあるが、その主因反対者運動にあると考えられる組織シャトーブリアンの「友の会」と「天は自ら助くる者を助く」とに大別され後者自由主義者立憲派(constitutionnels、コンスティテューショネル)、対抗反対派(contre-opposition、コントル=オポジシオン、立憲王政主義者)を支援した。 新議会の構成はいずれ党派明確な過半数形成できない結果終わった。ヴィレールの後継首相として1828年1月から登板したマルティニャック子爵中道政策にかじを切ろうとして、自由主義者譲歩して出版規制緩和しイエズス会排除し選挙人登録に手心加えカトリック教会学校設立制限した。シャルル10世は新内閣に不満で、ポリニャック大公やラ・ブルドネ(英語版のような信仰騎士団フランス語版その他のユルトラ人士交流深めた。マルティニャック内閣地方自治に関する法案否決され退陣した。シャルル10世や側近は、新内閣の組閣がヴィレール、シャトーブリアン、ドゥカズら王政主義派支持されるだろうと考えていたが、1829年11月に新首相に選ばれポリニャックは、自由主義者もとよりシャトーブリアンからも嫌悪された。シャルル10世は超然としていたが、政治的膠着一部王党派クーデター画策有志自由主義者反税スト呼んだ1830年3月会期冒頭、シャルル10世は暗に反対派を脅かす演説行った。これに対して221人(絶対多数)の代議士政府非難し221人の勅語奉答英語版))、これを受けたシャルル10世は議会停会解散した。シャルル10世は選挙権もたない庶民からの人望自信持ち続けており、ポリニャックとともにロシアからの支援得て植民地主義的膨張主義的な対外強硬策をとった。フランスはヴィレール辞任後から何度も地中海地域干渉し目下ギリシャマダガスカル遠征隊を派遣していた。また、ポリニャックフランスによるアルジェリア植民地化着手し6月早々にアルジェ太守対す勝利伝えられた(アルジェリア侵略)。ベルギー侵攻計画されたが、これを待たずベルギー独立革命起こった。しかし、対外政策によって国内問題から注意をそらす試み十分に功を奏しなかった。 シャルル10世による代議院解散七月勅令英語版)による出版規制厳格化選挙権制限結果1830年七月革命起こったしかしながら体制崩壊最大原因は、ユルトラの主義主張が、貴族カトリック教会、さらに農民多数からの支持つなぎとめる一方で議会外の世論選挙権もたない人々 、特に工場労働者ブルジョワジーからはきわめて不評であったことにある。 シャルル10世は孫のシャンボール伯爵に譲位しイギリス亡命したが、自由主義者ブルジョワ掌握した代議院シャンボール伯爵を「国王アンリ5世」とは認めなかった。保守派代議士大量にボイコットする中で投票が行われ、代議士団はフランス王位の空位宣言してオルレアン公爵ルイ=フィリップ擁立した

※この「シャルル10世(1824年–1830年)」の解説は、「フランス復古王政」の解説の一部です。
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