学校設立
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1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り、同年12月5日、日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した。1912年(明治45年)に東京女子医学専門学校に昇格、1920年(大正9年)に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになった。 1928年(昭和3年)ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席し、1937年(昭和12年)には女性初の内閣教育審議会の委員に任命された。
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学校設立
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当時の医学会は東京帝国大学卒でドイツ留学経験者を中心とし、その余の者は一段下に見られる風潮であった。この流れの中、唯一当時の官立歯科学教室であった東京帝国大学歯科学教室では、どんなに技量が上回っていても医学士の資格がない歯科医は傍観者としての地位に置かれ、大学出たでの医学士であろうが医学士と同席でなけらば患者を診ることができず、一般の人からも「歯科医になるのは容易」と見られていた。石原でさえ歯科学主任となる時、多くの人間から「何で歯科医になるのか」と反対された。この様な状態では優れた医療が行えず優れた人も歯科を目指さず、歯科医教育は私立の専門学校(私立東京歯科医学専門学校(1907年設立・現東京歯科大学)・私立日本歯科医学専門学校(1907年設立・現日本歯科大学)・私立東洋歯科医学専門学校(1916年設立・現日本大学歯学部)・私立大阪歯科医学専門学校(1917年設立・現大阪歯科大学)等の私立専門学校)が主となっていた。 島峰徹は充実した諸外国の歯科医教育を目の当たりにして、優れた人材を歯科医とし、実力ある歯科医を医師と同等の立場に引き上げ、歯科衛生を医学同様に重要なことと世間に認識させるためには模範を示すべき官立歯科学校設立が必要と考え奔走した。徹は当時文部省専門学務局長であった松浦鎮次郎を再三訪ね、官立歯科医学校設立の必要性を説き、1918年(大正7年)漸く予算申請の段となったが許可されず、松浦局長の文部省最高顧問機関である臨時教育委員会で決議してくれたら大きな力になるとのアドバイスを受け、同委員である岡田良平の賛同を得、岡田の実弟で副会長であった一木喜徳郎より、江木千之委員・久保田譲会長を説き、1919年(大正8年)臨時教育委員会において「政府は速やかに歯科高等教育機関を設置すべし」と言う付帯決議の決済を得るに至った。1922年(大正11年)春、漸く官立歯科医学校設立について議会を通ることができた。1923年(大正12年)歯科医学校設立のため具体的な予算作業に取り組んでいたところ、9月1日関東大震災がおこり復興までの間学校設立は凍結されていたが、1928年(昭和3年)10月12日勅令により『東京高等歯科医学校』が創設され、島峰徹は翌13日学校長の発令を受けた。徹は専門学校の名称を嫌い、ドイツにあった技術学校をモデルにして作られた『東京美術学校』『東京音楽学校』と同様に『高等歯科医学校』とした。
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