済生学舎
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1883年(明治16年)10月、内務省で女子の開業医試験の受験が許可された。翌1884年(明治17年)、荻野吟子が医術開業試験に合格した。瑞子はこの報せを新聞記事で読み、女子に医師への道が開かれたと知った。しかし開業試験の受験には、医学校での勉強が条件に課せられていた。 女子も入学可の医学校としては、成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学)があったが、月謝半年分の前納が条件であったため、学費不足から断念した。続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩いた。済生学舎は、純然たる開業試験の予備校であり、月謝も月ごとの分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校であった。 済生学舎は、後年に女子の入学を許可するものの、当時はまだ不許可であった。瑞子はその押しの強い性格から校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くした。食事も睡眠もとらず、男子学生たちの冷やかしや野次にも耐え続けた。3日目に校長の長谷川泰に会うことができたが、返事は「考えておきましょう」のみであったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可された。普段は男同然に振る舞う瑞子は、入学を許可されて初めて、声を立てんばかりに泣いた。 同1884年、瑞子は済生学舎で初の女生徒となった。周囲の学生は男子ばかりであり、瑞子は紅一点といえば聞こえは良いが、後述のように大柄の上に化粧気もなく、男子学生たちからは嫌がらせの的となった。奇声、口笛、嘲笑、黒板の卑猥な落書きなどの嫌がらせが続いたが、瑞子はそれを無視して勉強を続けた。包帯の実習など、2人1組での実習でも、瑞子と組もうとする男子学生はいなかった。骨の標本を観察しようとしたところ、男子学生が貸さないので、夜に墓場から骨を彫り出し、洗って用いたとの逸話もあった 男子たちよりも瑞子を苦しめたものは、資金面であった。頼れる親戚は皆無であり、産婆で稼いだ資金に、津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足であった。瑞子は勉強の傍らも内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出した。学校を終えて、19時頃に帰宅すると復習、その間に病院へも顔を出し、日付が変わる頃には内職に取り掛かった。学校では日暮れになってもランプの灯りが暗く、黒板の文字がよく見えない上に、後方の座席では講義も聞き取れないために、できるだけ良い席を確保するために、翌朝はまだ暗い内から書物を背負って、学校へ向かった。怪しげな姿を、よく巡査から咎められた。文字通り、不眠不休の生活であった。ろくな食事をとることもなかった。当時の金銭的な窮状を、瑞子は後年、以下の通り振り返っている。 何しろひどい素寒貧でしょう、お金になることというのが、いつでも第一恋しかったね、それでならよその台所も這いまわったし、手紙の代筆でも何処かへ届けの代書きでも、何でもござれ、時たま忙しい産婆さんの手代り頼まれたり産後のつきそいなんてのがあると、有難かったねえ。 — 高橋瑞子、島本久恵「女医事始」、島本 1966, p. 86より引用 私の勉学時代は随分惨めなものでした。何しろ素寒貧の上に学費と云っては親からも誰れからも何一つ補助を受けませんでしたからね。とても今の方には御想像がつきますまい、ですから学校へだって金の有る間だけ通つて、其の内に一月もすると金がなくなるから止めて、又金を蓄めて行くといふ風で、満足に行く事は出来ませんでした。 — 高橋瑞子、「高橋瑞子女子探訪記」、日本女医会雑誌 2018, p. 9より引用
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済生学舎
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明治初期、外国との交流が活発になるにつれ、コレラ、赤痢、チフス等の急性伝染病が流行し、西洋医の早期育成は、近代国家出発における明治政府の使命であった。政府は、1874年太政官による医制制定、翌年2月に医術開業試験規則を制定発布し、これから新たに医術の開業を行おうとするものは正規の医学校を卒業した者を除いて医術開業試験を受験して開業免状を受けることとした。当時の日本には漢方医が2万人余りいたが伝染病には対応できず、西洋医は絶対的に不足していた。長谷川は政府の方針を受けて1876年(明治9年)4月7日に日本最古の医術開業試験予備校・済生学舎を本郷元町1丁目66番地に創設し、開業医速成を実践して明治期の国民医療を支えて行く。 済生学舎は、フーフェランドの「医戒」にある言葉「済生救民」(特に貧しい人々を病から救済すること)を実践しようとした師佐藤尚中の精神)を長谷川が受け継いで開校したもので、その教育は、ドイツの19世紀の「自由教育―学ぶ者の自由、教える者の自由」を導入し、「済生救民」の思想を建学の精神とした。長谷川泰の演説は情熱的で学生達に学問に対する使命感を充分に与えた。「済生救民」とは貧しくして、その上病気で苦しんでいる人々を救うのが医師の最も大切な道であるという意味で、長谷川泰は「患者に対し済恤(さいじゅつ)の心を持って診察して下さい」と書き残しており、自ら「貧しい人々を無料で入院させてほしい」という願書を年に120通以上東京府知事宛に書き送り、その思想を実践している。 済生学舎が開校した当初は、教員5名、医学生28名であった。医学生は寄宿生と通学生に分かれ、医術開業試験のための講義の外に、英語・ドイツ語・ラテン語と数学の講義も行われ、入学には学歴を必要とせず、いつでも入学できた。講義期間は原則6期制3年とし、医術開業試験に合格すれば直ちに卒業とされた。1882年1月には、学生数の増加に伴い校舎が手狭になり湯島4丁目8番地に移転した。後期試験に実地試験が加わり、付属蘇門病院を設立して対応した。1883年には学生数も484名と増加し、済生学舎は順調な発展を遂げ、1884年3月済生学舎は「東京医学専門学校 済生学舎」として届け出て認められており、同12月に初めて女子医学生の入学を許可し、高橋瑞子はその第1号となり、17年余りの間に130余名が女医となった。また、1896年5月30日済生学舎臨床講堂にてレントゲン博士がX線発見後7ヶ月にして、丸茂文良が日本初のX線実験・臨床講義を行うなど実践的で最先端の充実した教育を実施している。 著名な卒業生としては、野口英世(1897年卒)、吉岡弥生(1890年から1892年迄在学)、浅川範彦(1883年卒)、須藤憲三(1893年卒)、小口忠太(1891年卒。小口病の発見者で名古屋医科大学学長も務めた)、右田アサ(1893年卒。「日本初の女性眼科医」)などがいる、医学教育機関として28年間に渡り延べ9,000名以上の医師、医学者を輩出している。 特に野口英世は、経済的理由から済生学舎への入学は遅かったが、血脇守之助の援助で1897年(明治30年)4月1日から10月まで約半年間済生学舎に在籍して最短期間で卒業している。野口は済生学舎では細菌学を坪井次郎(後の京都帝国大学医科大学学長)に学び、順天堂時代には菅野徹三(済生学舎卒業生)から論文の書き方や図書館の利用法等を指導され、伝染病研究所時代には浅川範彦(済生学舎卒業生)からジフテリア血清の検査法・組織培養法等を習っている。 機関誌として全国の卒業生に学内の臨床講義や済生学舎内の情報伝達を目的とした医学雑誌「済生学舎医事新報」が山田良叔を主幹として1893年に創刊され、128号(1903年)まで刊行された。 当時唯一の男女共学の医学校であったが、明治33年(1900年)に突如、女子の新入学を禁じ、翌年には在学中の女生徒の受講も拒絶したため、45名ほどいた女生徒らは神保医院(神保院)の鈴木万次郎・篤三郎兄弟の協力で場所を確保し、済生学舎の講師らを招いて授業を続行、「女子医学研修所」を設立した。明治35年には済生学舎自体が廃校となったため、在校生は女子医学研修所の協力を得て同様に「東京医学校」を設立した。明治37年、女子医学研究所生徒の受け入れを一度は拒否したものの最終的に承諾し、明治43年には日本医学校と合併し、のちにこれが日本医学専門学校→日本医科大学へと発展した。
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