済生学舎とは? わかりやすく解説

済生学舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:45 UTC 版)

高橋瑞子」の記事における「済生学舎」の解説

1883年明治16年10月内務省女子開業医試験受験許可された。翌1884年明治17年)、荻野吟子医術開業試験合格した。瑞子はこの報せ新聞記事読み女子医師への道が開かれた知った。しかし開業試験受験には、医学校での勉強条件課せられていた。 女子入学可の医学校としては、成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学)があったが、月謝半年分の前納条件であったため、学費不足から断念した続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩いた。済生学舎は、純然たる開業試験予備校であり、月謝月ごと分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校であった。 済生学舎は、後年女子入学許可するものの、当時はまだ不許可であった。瑞子はその押しの強い性格から校長面会求め3日3晩わたって無言校門立ち尽くした食事睡眠もとらず男子学生たち冷やかし野次にも耐え続けた3日目校長長谷川泰に会うことができたが、返事は「考えておきましょう」のみであったため、その後連日嘆願し10目にして入学許可された。普段は男同然に振る舞う瑞子は、入学許可され初めて、声を立てんばかり泣いた。 同1884年、瑞子は済生学舎で初の女生徒となった周囲学生男子ばかりであり、瑞子は紅一点といえば聞こえ良いが、後述のように大柄の上化粧気もなく、男子学生たちからは嫌がらせの的となった奇声口笛嘲笑黒板卑猥な落書きなどの嫌がらせ続いたが、瑞子はそれを無視して勉強続けた包帯実習など、2人1組での実習でも、瑞子と組もうとする男子学生はいなかった。骨の標本観察しようとしたところ、男子学生貸さないので、夜に墓場から骨を彫り出し洗って用いたとの逸話もあった 男子たちよりも瑞子を苦しめたものは、資金面であった頼れる親戚皆無であり、産婆稼いだ資金に、津久井磯からのある程度援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足であった。瑞子は勉強傍ら内職女中手紙代筆着物仕立てなど、自力生活費学費捻出した。学校終えて19時頃に帰宅する復習その間病院へも顔を出し日付が変わる頃には内職取り掛かった学校では日暮れになってランプ灯り暗く黒板文字がよく見えない上に、後方座席では講義聞き取れいためにできるだけ良い席を確保するために、翌朝はまだ暗い内から書物背負って学校向かった怪しげな姿を、よく巡査から咎められた。文字通り不眠不休の生活であった。ろくな食事をとることもなかった。当時金銭的な窮状を、瑞子は後年以下の通り振り返っている。 何しろひどい素寒貧でしょうお金になることというのが、いつでも第一恋しかったね、それでならよその台所這いまわったし、手紙代筆でも何処か届け代書でも、何でもござれ時たま忙し産婆さんの手代り頼まれたり産後つきそいなんてのがあると、有難かったねえ。 — 高橋瑞子島本久恵女医事始」、島本 1966, p. 86より引用 私の勉学時代は随分惨めなものでした。何し素寒貧の上学費と云っては親からも誰れからも何一つ補助を受けませんでしたからね。とても今の方には御想像つきますまい、ですから学校へだって金の有る間だけ通つて、其の内一月もすると金がなくなるから止めて、又金を蓄めて行くといふ風で、満足に行く事は出来ませんでした。 — 高橋瑞子、「高橋瑞子女子探訪記」、日本女医会雑誌 2018, p. 9より引用

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済生学舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 21:37 UTC 版)

長谷川泰」の記事における「済生学舎」の解説

明治初期外国との交流活発になるにつれ、コレラ赤痢チフス等の急性伝染病流行し西洋医の早期育成は、近代国家出発における明治政府使命であった政府は、1874年太政官による医制制定翌年2月医術開業試験規則制定発布しこれから新たに医術開業行おうとするものは正規医学校卒業した者を除いて医術開業試験受験して開業免状を受けることとした。当時日本には漢方医が2万人余りいたが伝染病には対応できず、西洋医は絶対的に不足していた。長谷川政府の方針受けて1876年明治9年4月7日日本最古医術開業試験予備校・済生学舎を本郷元町1丁目66番地創設し開業医速成実践して明治期国民医療支えて行く。 済生学舎は、フーフェランドの「医戒」にある言葉済生救民」(特に貧し人々を病から救済すること)を実践しようとした佐藤尚中精神)を長谷川受け継いで開校したもので、その教育は、ドイツ19世紀の「自由教育―学ぶ者の自由、教える者の自由」を導入し、「済生救民」の思想建学の精神とした。長谷川泰演説情熱的学生達に学問対す使命感充分に与えた。「済生救民」とは貧しくして、その上病気苦しんでいる人々を救うのが医師の最も大切な道であるという意味で、長谷川泰は「患者対し済恤(さいじゅつ)の心を持って診察して下さいと書き残しており、自ら「貧し人々無料入院させてほしい」という願書を年に120通以上東京府知事宛に書き送り、その思想実践している。 済生学舎が開校した当初は、教員5名、医学生28であった医学生寄宿生通学生分かれ医術開業試験のための講義の外に、英語・ドイツ語ラテン語数学講義行われ入学には学歴を必要とせず、いつでも入学できた。講義期間は原則6期3年とし、医術開業試験合格すれば直ち卒業とされた。1882年1月には、学生数の増加に伴い校舎手狭になり湯島4丁目8番地移転した後期試験実地試験加わり付属病院設立して対応した1883年には学生数も484名と増加し、済生学舎は順調な発展遂げ1884年3月済生学舎は「東京医学専門学校 済生学舎」として届け出て認められており、同12月初め女子医学生の入学許可し高橋瑞子はその第1号となり、17年余りの間に130余名女医となったまた、1896年5月30日済生学舎臨床講堂にてレントゲン博士X線発見後7ヶ月にして、丸茂文良が日本初X線実験臨床講義を行うなど実践的最先端充実した教育実施している。 著名な卒業生としては、野口英世1897年卒)、吉岡弥生1890年から1892年在学)、浅川範彦1883年卒)、須藤憲三1893年卒)、小口忠太1891年卒。小口病発見者名古屋医科大学学長務めた)、右田アサ1893年卒。「日本初女性眼科医」)などがいる、医学教育機関として28年間に渡り延べ9,000名以上の医師医学者輩出している。 特に野口英世は、経済的理由から済生学舎への入学遅かったが、血脇守之助援助1897年明治30年4月1日から10月まで約半年間済生学舎に在籍して最短期間卒業している。野口は済生学舎では細菌学坪井次郎(後の京都帝国大学医科大学学長)に学び順天堂時代には菅野徹三(済生学舎卒業生)から論文書き方図書館利用法等を指導され伝染病研究所時代には浅川範彦(済生学舎卒業生)からジフテリア血清検査法組織培養法等を習っている。 機関誌として全国卒業生学内臨床講義や済生学舎内の情報伝達目的とした医学雑誌「済生学舎医事新報」が山田良叔を主幹として1893年創刊され128号(1903年)まで刊行された。 当時唯一の男女共学医学校であったが、明治33年1900年)に突如女子新入学禁じ翌年には在学中女生徒受講拒絶したため、45名ほどいた女生徒らは神保医院(神保院)の鈴木万次郎・篤三郎兄弟協力で場所を確保し、済生学舎の講師らを招いて授業続行、「女子医学研修所」を設立した明治35年には済生学舎自体廃校となったため、在校生女子医学研修所協力得て同様に東京医学校」を設立した明治37年女子医学研究所生徒受け入れ一度拒否したものの最終的に承諾し明治43年には日本医学校合併し、のちにこれが日本医学専門学校日本医科大学へと発展した

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