済生学舎廃校宣言から済生学舎同窓医学講習会
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「長谷川泰」の記事における「済生学舎廃校宣言から済生学舎同窓医学講習会」の解説
長谷川泰は専門学校令に対応すべく本郷真砂町の黴毒医院跡地に2千余坪の校舎を新築する改革案を持っていたが、1年以内では実現不可能であり、苦悩の末、済生学舎廃校の決心を固め、1903年8月30日、『東京日日新聞』等に「済生学舎廃校の理由に付広告」を掲載して廃校宣言を行った。 しかし、実際には済生学舎は既に1884年東京医学専門学校として届け出て認められており、1887年には文部省令第五号による文部大臣森有礼の布達で済生学舎が官立府県立学校と同等であることが認められている。また1896年の卒業式において坪井次郎が済生学舎の顕微鏡実験室は設備完全にしてドイツの大学よりも遥かに優れていると指摘している様に、設備・環境とも整っていたのである。そして直ちに勉学の道を失った学生達の中から有志が集り、その10日後に校長は変わったが同じ教師により同じ教科書を用いて旧済生学舎の生徒へ済生学舎同窓医学講習会として授業が行われ、それが「医学研究会」、日本医学校の設立や東京医学校との合併等を経て今日の日本医科大学に至っている。 維新の元勲と云われる人の中で、凡そ山県有朋ほど、幕末の政局を根に持って執着して忘れ得なかった人はいないと云われ、その私怨から逃れられず長谷川泰は済生学舎廃校宣言を行うが、もはや医学校済生学舎は泰一人の個人的な学校ではなくなり、社会的存在であることを泰は認識出来ていなかったと云う事が指摘できる。
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