幕末の政局
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幕末の政局において、大老・井伊直弼(彦根藩主)による強引な日米修好通商条約締結への反撥から尊王攘夷運動が高まり、井伊は安政の大獄でこれらを弾圧するが、逆に桜田門外の変で暗殺され、江戸幕府の権威は急速に低下しつつあった。そこで幕府は朝廷と結ぶことで権威の恢復を図ろうとする。 従来、朝廷は政治との関わりを規制されていたが、江戸時代後期には国学・水戸学の隆盛、大政委任論などの登場により次第に潜在的地位を高め、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作の中で、老中・堀田正睦(佐倉藩主)が反対勢力を抑えるため孝明天皇の勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していた。
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幕末の政局
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慶応3年6月に帰国後、勘定頭取を経て10月には勘定奉行並に昇進。諸大夫となり、官位を内膳正に補任され、同時に名を広胖と改める。15代将軍徳川慶喜に仕え京坂を往復するが、大政奉還後は江戸へ戻った。倒幕路線を進める薩摩藩が江戸で挑発的騒動を起こしていたため、12月には大目付滝川具挙とともに上坂し、大坂城にいた慶喜に率兵上京を進言したという。 翌慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いにおいても後方で兵站業務に携わるが、徳川軍は敗退。慶喜は開陽丸で江戸へ引き上げてしまう。小野は海軍伝習所時代の後輩榎本武揚(開陽丸艦長)らとともに殿軍として残りの幕府軍艦で江戸へ引き上げる際、大坂城御金蔵に貯蓄されていた古金18万両を江戸へ持ち帰った。 江戸に戻った後、上司の勘定奉行・小栗忠順が慶喜から叱責を受けて罷免されるなど、恭順路線を進める勝・慶喜の方針により、主戦派はことごとく粛清され、2月には小野も逼塞となる。4月に東征大総督府が率いる新政府軍が江戸城へ入った後は、鳥羽・伏見の戦前の経緯から小野が主戦派の首魁と目され、「重罪・厳科の処、格別の寛典を以て死一等を宥められ」永預(禁固)の刑を受ける。入獄中に、小野らが購入したストーンウォール号が到着。所有権は明治新政府に移管した。6月、徳川家の駿府藩への移封が決定された際、出獄を赦される。
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