藩政・幕政改革と日本とは? わかりやすく解説

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藩政・幕政改革と日本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:31 UTC 版)

近代における世界の一体化」の記事における「藩政・幕政改革と日本」の解説

詳細は「田沼意次」、「寛政の改革」、「徳川家斉」、および「天保の改革」を参照 イギリス産業革命主導した世界商品木綿だったが、16世紀日本もたらされたのは中国・朝鮮産の厚手のものだった夏用として麻を用いていた日本人はそれを冬用に用いた木綿輸入のための費用莫大だったため、近世前半繊維短く太い綿花移植し、特に18世紀以降新井白石方針もあって国産化加速した木綿輸入していた時期日本の綿業は東アジア3国のなかでも最も遅れていたが、国内商品経済高まりによって綿業技術両国圧倒するまでに発展したとみられる。ただし、3国はともに海禁鎖国政策基本としていたため、この競争関係は表面化しなかった。 幕府財政享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入増加したが、宝暦年間1751年-1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりをみせた。これを打開するため、発展してきた商品生産流通新たな財源見出し、さらに大規模な新田開発蝦夷地開発試みたのが田沼意次だった。田沼は、それまで農業依存体質改め重商主義政策実行移した商品生産流通掌握し物価引き下げるため手工業者仲間組織株仲間として公認奨励して、そこに運上冥加などを課税した銅座朝鮮人参座真鍮座などの座を設け専売制実施した町人資本による印旛沼手賀沼干拓事業、さらに長崎貿易推奨し、特に俵物など輸出商品開発通じて金銀流出抑えようとした。また、蘭学奨励し工藤平助らの提案によって最上徳内蝦夷地派遣し新田開発鉱山開発さらにアイヌ通じた対ロシア交易可能性調査させた。これらは、当時としてはきわめて先進的な内容をふくむ現実的合理的な政策だったが、賄賂政治批判され天明の大飢饉とも重なって百姓一揆打ちこわし激発して失脚した続いて田沼政治批判した松平定信1787年登場し寛政の改革推進した田沼時代インフレ収めるため、質素倹約風紀取り締まり進め、超緊縮財政臨んだ。抑商政策が採られて株仲間解散命じられ大名囲米義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓出身地帰還させた。また棄捐令発して旗本御家人らの救済を図るなど、保守的理想主義的な傾向強かった対外対策では、林子平蝦夷地対策発禁処分として処罰し漂流者大黒屋光太夫送り届けたロシアアダム・ラクスマン通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な姿勢臨んだ七分積金人足寄場設置など、こんにちでいう社会福祉政策行ってもいるが、思想文芸統制し全体として町人百姓厳しく旗本御家人過剰に保護する政策を採り、人心離反招いたまた、重商主義政策放棄により、田沼時代健全化した財政は再び悪化転じた定信辞任後文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治実権11代将徳川家斉にぎった家斉将軍職を子の家慶ゆずった後も実権をにぎり続けたので、この政治を「大御所政治」とよんでいる。家斉の治世は、はじめ質素倹約政策がひきつがれたが、貨幣改鋳による出目収益幕府財政が一旦うるおうと、大奥での華美な生活にながれ、幕政放漫経営陥った一方では、商人経済活動活発化し、都市中心に庶民文化化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差拡大して各地百姓一揆村方騒動頻発し治安悪化した1832年からはじまった天保の大飢饉全国広がり都市でも農村でも困窮した人びとがあふれ、餓死者も多く現れた。1837年幕府無策憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎大坂武装蜂起した大塩したがった農民多く地方にも飛び火し幕府諸藩大きな衝撃あたえたこのような危機に対応すべく、家斉死後の1841年老中水野忠邦幕府権力の強化のために天保の改革呼ばれる財政立て直しのための諸政策を実施したが、いずれも効果はうすく、特に上知令幕府財政安定国防充実との両方をねらう意欲的な政策だったが、社会各層からの猛反対浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年失脚した。 忠邦はまた、アヘン戦争における清の敗北により、従来外国船に対す異国船打払令改め薪水給与令発令し柔軟路線転換する一方江川英龍高島秋帆西洋砲術導入させて、近代軍備整えさせた。アヘン戦争衝撃は、日本各地をかけめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷され幕末の政局に強い影響あたえた源了圓は、「『海国図志』の日中韓読み方違い」において、のちに洋務派と変法派を生みつつも刊行当時正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応鈍かった朝鮮翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され国民一般に公開されて、きわめて関心高かった日本比較している。こうしたなか、薩摩藩長州藩など雄藩よばれる藩では財政改革成功し幕末期政局で強い発言力をもつ力をたくわえた経済面では、地主問屋商人なかには工場設けて分業協業によって手工業生産をおこなうマニュファクチュア天保期に現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺尾張綿織物業、桐生足利結城など北関東地方絹織物業などでおこなわれた

※この「藩政・幕政改革と日本」の解説は、「近代における世界の一体化」の解説の一部です。
「藩政・幕政改革と日本」を含む「近代における世界の一体化」の記事については、「近代における世界の一体化」の概要を参照ください。

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