藩政改革と二宮尊徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 05:46 UTC 版)
江戸時代後期になると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。 藩主の忠真は二宮尊徳を登用して改革を行なうこととした。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとした。 しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は文政5年(1822年)、尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した。桜町は3000石の表高にも関わらず、荒廃が進んで収穫が800石にまで落ち込んでいた。それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度失敗していた。 尊徳が桜町復興に成功すると、次に忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した。天保8年(1837年)のことである。尊徳登用を思い立ってから15年が経っていた。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが、天保8年、忠真が57歳で突如として急死し、跡を嫡孫の忠愨が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くした。二宮尊徳による小田原藩の改革は保守派の反対によって頓挫した。 また、文政5年(1822年)には藩校集成館(小田原市立三の丸小学校所在地にあった)を興した。この藩校は維新後、幾度かの変遷を経て六郡共立小田原中学校となり、1886年(明治19年)、同中学校が大住郡金目村に移転され三郡共立学校となることで、神奈川県立秦野高等学校、神奈川県立平塚農業高等学校の前身となった。 一方、幕政においては松平定信の推挙で老中となり、20年以上在職する。政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙、川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している。
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