藩政時代以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:51 UTC 版)
江戸時代の五島列島は大半が福江藩(五島藩)五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。 このほか、福江藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領(交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが、福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて、今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。 1678年 魚目で鯨網による捕鯨が始まる。 1797年(寛政9年) 大村藩外海地方から108名が五島へ移住した 。その後、移住した人たちに土地が与えられたことを知ると外海地方からの移住者が増えた。 1863年 福江城(石田城)完成。 明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地政学上の重要性から大瀬埼灯台や女島灯台などが建設されている。 1900年 福江城本丸跡に長崎県立五島中学校創立 1912年 五島~長崎、五島~佐世保間に定期航路開設 昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、太平洋戦争の戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。 この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功。 五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。 1955年 西海国立公園の制定により、五島各地が国立公園に含まれる。 1962年 福江大火により市の中心部604戸が焼失。 1963年 福江空港完成。 1964年 集中豪雨により福江川氾濫し、家屋全壊35戸、床上浸水487戸、死者11名。 2011年(平成23年) 「五島市久賀島の文化的景観」 及び「小値賀諸島の文化的景観」が重要文化的景観として選定される。 2012年(平成24年) 「新上五島町北魚目の文化的景観」及び「新上五島町崎浦の五島石集落景観」が重要文化的景観として選定される。 近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市と南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。
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