藩政期から明治期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:58 UTC 版)
「中島町 (広島市)」の記事における「藩政期から明治期まで」の解説
中島地区は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、2つの川の分岐点に位置することから、藩政期には太田川上流の芸北地域と広島湾とを結ぶ水運による物産集散地となり、また西国街道(山陽道)がこの地区の中ほどを横断していた(現在の中島本通)。明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場の地位を譲らず、加えて1889年の市制施行により中島新町に市役所が置かれていたため、1878年以降県庁が設置されていた隣の水主町(現・中区加古町)と併せこの近辺の地区は県政・市政の中心部としての位置を占めていた。また明治後期になると元柳町の(旧)広島銀行本店や中島本町の住友銀行広島支店など、多くの金融機関がこの地区に立地しており、元安川対岸の大手町通りと並ぶ金融街を形成していた。
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