藩政機構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 03:16 UTC 版)
藩政機構は多くの小藩とそれほど異なることはなく、家老・用人・奉行・代官などにより中央機関が形成されていたとみられる。家老はおおむね200石以上の者が3人前後就任している。慶安年間には、最大の知行(550石)を給されていた分部与次右衛門が「御家老」を務めており、ほかに沢井八郎右衛門(300石)も「家老役」を務めていた。 野洲郡の領地については、矢島村(現在の守山市矢島町)に存在していた矢島館跡(戦国末期に足利義昭が滞在したことで「矢島御所」とも呼ばれる)を出張陣屋として利用していた。高島郡の領地は3地域に分けられ、3人の代官が受け持ったとされる。代官に任じられたのは現米給の下級家臣で、地位や格式、藩政上の発言力は低かったと推測されているが、現地の豪農・名望家に俸給が与えられ代官に任命された事例も見られる。 江戸屋敷は、上屋敷が芝愛宕下に、下屋敷が白金村にあった。このほか、京都に京屋敷を置き、大津に蔵屋敷を構えて役人を配置していた。
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