館跡(上平寺館)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:41 UTC 版)
江戸時代初期に作成された「上平寺城絵図」(米原市教育委員会蔵)に、伊吹山南麓にあった京極氏館と城下町、家臣団屋敷群の様子が描かれており、現存する遺構はこの絵図に一致している。上平寺集落の北側の奥に京極氏の館跡があり、敷地は南北250メートル、東西170メートルを測る。館と城下町との間は内堀で仕切られている。敷地奥に伊吹神社があり、神社の参道両脇には一族や重臣の屋敷地が配され、「上平寺城絵図」によれば「弾正屋敷」「隠岐屋敷」「蔵屋敷」「厩」などがここにあった。神社の手前右側が「御屋形」で、敷地は幅35メートル、奥行54メートルを測る。奥に庭園があり、庭園に面した建物跡からは約30個の礎石が検出されている。礎石の配置から、ここには周囲に縁を設けた主建物と、これに平行して建つ小建物の2棟があったことがわかる。 庭園は2つの池を中心とした池泉鑑賞式であった。「上平寺城絵図」には「御屋形様御自愛泉石」とある。庭石は一部抜き取られているが、滝組石、水分(みくまり)石、虎石などと称される景石が残っている。建物付近からは多数の土師(かわらけ)の皿のほか、中国から輸入された青磁や白磁の破片、竿秤(さおばかり)の錘(おもり)などが出土した。この時代の武家庭園は儀式や饗宴の場としての役割を果たしていた。出土した土師皿は宴席での酒杯として用いられたもので、庭園に面した建物は饗宴や儀式が行われる会所的なものだったと思われる。この庭園は戦国時代の武家庭園の遺構のうち、作庭年代の明らかなものとして貴重である。 「上平寺城絵図」によれば、内堀の外(南)には「諸子屋敷」(武家屋敷)、「町屋敷」(京極氏直属の商工業者の屋敷)などが建ち並んでいた。さらに南の外堀の外には「市店民屋」(一般の民家や店)があった。この城下町は、東が藤古川の渓谷、西が尾根と家臣団の屋敷地で区切られ、南は外堀で区切る総構であった。地区の南には北国脇往還が東西に通じていた。
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