道灌山
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道灌山(どうかんやま)は、東京都荒川区西日暮里4丁目にある高台である。田端、王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所にある。名称の由来は江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説[1]、キツネが住んでいた(または稲荷が祀られていた)ので稲荷山(とうかやま)と呼ばれたのが訛ったという説がある。
別名と範囲
本来は現在の道灌山通りを挟んで北側(西日暮里4丁目)が道灌山であり、南側(西日暮里3丁目)を諏方台(すわだい)、日暮里山(にっぽりやま)、新堀山(しんぼりやま)、日暮山(ひぐらしやま)等といったが、現在では混同されて両方を漠然と道灌山とも日暮里山ともいっている(人によっては両者を逆の名前で呼び分ける人もいる)。
歴史
古くは西は富士山、東は筑波山が見える景勝地であった[2]。江戸時代には、薬草の採集地として、また、虫の音の名所としても知られていた[1]。『江戸名所図会』には、歌川広重画の「道灌山虫聞之図」という錦絵が載る[3][4]。JR西日暮里駅前にある被覆された崖が「道灌通り」に面している[3]。
明治時代には、この台地を訪れた正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と、ここからの眺望を短歌に残している[1]。また、余命が短いことを悟った子規が高浜虚子を誘い出し議論をした挙句、決裂したのはこの高台にある茶店でのことであった[5]。
道灌山遺跡
開成学園のグラウンドを中心に台地上に広がる縄文時代から江戸時代に至る複合遺跡である。縄文時代および弥生時代の竪穴建物跡、平安時代の建物跡、江戸時代の溝などが発掘され、縄文土器や弥生土器が出土している[1]。
周辺施設
道灌山側(北)
- 開成中学校・高等学校
- 道灌山学園
- 道灌山幼稚園
- 道灌山学園保育福祉専門学校
- 藍染川西通り(藍染川排水路の暗渠上)
- インソース道灌山ビル
日暮里山側(南)
- 荒川区立第一日暮里小学校
- 西日暮里駅
- 諏方神社
脚注
参考文献
- 斎藤長秋 編「卷之五 玉衡之部 道灌山聴蟲」『江戸名所図会』 3巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、278-279頁。NDLJP:1174157/144。
関連項目
- 東京都道457号駒込宮地線 - 通称「道灌山通り」。
- ひぐらし坂 - 道灌山通りから道灌山に登る坂。
道灌山(どうかんやま)
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「おかみさん 新米内儀相撲部屋奮闘記」の記事における「道灌山(どうかんやま)」の解説
春日部屋所属力士(三段目23枚目→最高位十両→廃業)。 東京都文京区出身。本名は作中で明かされていない。年齢は単行本10巻の時点で27歳で、はつ子より2年年上と見られる。四股名は住んでいた地名から。単行本第1巻の描写によると、趣味はヘビーメタル鑑賞。春日部屋一の大柄のあんこ型力士。花嵐・咸臨丸・逆波に続く実力を持っていたが、肝心な時期に怪我に泣かされる不運が重なり、初音に先を越される。都会っ子らしくドライな性格で、幕下上位で十両が見え始めた頃、あっさり引退を決めるがはつ子の説得により撤回、直後に相撲に強みを増し十両昇進を決定させる。しかしその時点で既に負傷や加齢を理由に心が折れ、しばらくは気力を振り絞り十両に在位し続けたものの、十両下位に在位した場所で膝に致命傷を負い、2勝13敗と大敗して幕下陥落が確定した直後に引退した。 幕内にも昇進できず、十両にも長くは在位できなかったが弟弟子(特に西村)には慕われた。引退後はチャンコ料理店に就職したと見られる。
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